杉中 学
私が中国語(北京語)を習得するため、台北の臺灣師範大學國語教學中心に行ったのは、1983 年のことでした。当時の台湾は蒋経國総統の施政下、まだ戒厳令が敷かれており、色々な制限もあった時代でした。町の人々は、一見すると日本と変わらないような平和な暮らしをしているように見えましたが、高速道路の料金所や大きな橋のたもとには、銃を持った兵士が立ち、街の中を憲兵隊が巡邏している姿も毎日のように見かけるなど、台湾と中国とが対峙していることを実感していました。
私は師大での語学留学の後、日本企業の駐在員として引き続き台湾に住み続け、在住期間は7年に及びました。その頃の私は 20 代後半から 30 代前半で、同年代の日本の友人たちは学校を卒業して会社勤めをし、一方、まだ結婚には早いという年代、言い換えれば自分の給料は好き勝手に使えるという、つまり「独身貴族」の時期。友人たちは次々と私を訪ねて台湾へ遊びにやって来ました。
その中の一人である高校時代からの親友が、発売されて間もなかった「ファミコン」を土産に携えてやって来ました。今から思うと単純なゲームばかりだったのですが、それでも当時の貧乏留学生の間で、ファミコンがあっという間に流行しました。しばらくすると「ドラゴンクエスト」が登場し、面白いゲームだとの日本での噂が台湾にも伝わりました。
その時代の台湾では著作権を始め、知的財産権はほとんどないに等しく、街中には書籍・CD 等の海賊版が氾濫し、日本でのファミコンブームに乗って、台湾でも安価なファミコンのゲーム機やゲームソフトの海賊版が、あっという間にあちこちで見られるようになっていました。
街中に現れたゲームソフト屋でも、話題の「ドラクエ」が日本で買うよりずっと安い値段で売り出され、日本の貧乏留学生はこれに飛びつき、時間があればゲームに興じました。しかし、「海賊版」の悲しさ、ゲームソフト自体は安く買えるものの、さすがに説明書までは付いていないため、ゲームが進むに連れて手に入れるアイテムや魔法などの内容や使い方がわかりません。体力を大きく回復する呪文をすでに身につけていながら、その使い方を知らず、大量の「薬草(体力を少しだけ回復できる)」を持ったまま、地下ダンジョンで「のたれ死に」を繰り返す友人もいました。
そんな時はゲーム仲間同士で情報交換をしながら、ゲームを進行させるのですが、今のようにスマホや携帯どころか、PC もない時代、自分の頭に「?」を秘めたまま、ゲーム仲間に会う機会を待つか、どうしても待ちきれない場合には固定電話で連絡を取ってヒントを得る、といった様子でした。
ファミコンゲームは、当然のように瞬く間に台湾の子供たちの間にも浸透しました。ゲームソフト屋の店内には、ファミコンがつながれたテレビが何台も置かれて「にわかゲームセンター」と化し、近所の小学生が群がっていました。画面の上方から現れて襲ってくる敵を次々に打ち落としていくシューティングゲームに熱中する子、「スーパーマリオ」に興じる子もいましたが、なんと「ドラクエ」の画面をのぞき込み、魔物たちと戦いを繰り返している子供も少なからず見かけました。「ドラクエ」を始めとする RPG(ロールプレイングゲーム)は、画面に現れるシナリオ展開に沿って、「はなす」「しらべる」「たたかう」「にげる」等のコマンドを指定しながら進めていくゲームで、表示の言語(「ドラクエ」の場合は日本語)が理解できなければ、ゲームは進めようがないはずなのです。しかし台湾の若きゲーマーたちは、そんなことはお構いなしに、私たち日本人と同じくらいのスピードで、どんどんとゲームを進めていました。
しかし彼らには一つの大きな関門がありました。RPG は、ゲームを全てクリアするには長い時間を要し、1日ではとてもゲームを終えることができないので、ゲームの進んだところまでを記憶しておかなければなりません。現在のゲームソフトには、ゲームの進度を記憶できるのに十分な記憶容量があり、ボタンを1回押すだけで、ゲームのデータが簡単に保存できます。しかし、その頃のゲームソフトは記憶容量がごく限られていたので、これまで進めてきたゲームを次回も引き続いて行うためには、ゲーム中断時、画面に現れる「復活の呪文」と称するパスワードを書き写しておき、次にゲームを再開する際に、この「復活の呪文」を入力しなければなりませんでした。
「ドラクエ」の場合、「復活の呪文」はすべてひらがなで、しかも初期のゲームは画面の解像度が悪く、「あ」と「お」、また「ぬ」と「ね」と「め」などの文字の判別が難しく、私たち日本人でも、時々呪文を書き写し損ね、メモしておいた呪文を入力してゲームを再開しようとしたところ、「じゅもんがちがいます」という画面が現れ、それまで長い時間掛けて進めてきたゲームのデータが回復できず、費やした時間が全て水の泡になってしまうことがありました。
ゲーム屋の子供たちは、なんとこの呪文を一生懸命ノートに書き写していました。日本の子供は一人としておらず、またこれらの台湾の子供たちが日本語を学んでいるということはあり得ません。つまり、彼らにとっては、テレビ画面に現れた、その読み方すら分からない謎の記号を書き写し、そして次にゲームを再開する時には、この記号を一つ一つ画面から探して入力する、という作業を行っていたのです。
彼らもまた、パスワードを書き写し間違え、現れた「じゅもんがちがいます」の画面を見て、「なんでゲームの続きが出来ないの? 一体、なんて書いてあるんだろう?」と首をかしげていたことでしょう。
その後、台湾のゲーム少年たちが日本語を学び、呪文の文字が読めるようになったのか、また自分のやっているゲームのストーリーを理解することが出来るようになったのか、30 年以上を経た今となっては知るよしもありません。
彼らがこのような形で初めて日本語と接触していた戒厳令下の時代、日本語の歌やテレビ番組が公共の電波に乗ることはなく、また日本語を専門的に教える日本語学科も、わずか 4 つの私立大学に設けられているのみでした。
日本に帰った今、語学留学やワーキングホリデーで日本に滞在している台湾の若者たちに聞くと、「日本のゲーム・アニメ・J ポップ・ドラマが好きで、日本や日本語に興味を持ちました」という答えが少なくありません。彼らにとっては台湾にいても、日本の映画やテレビ番組を日本とほとんど時差なく見ることができ、また日本語の専門教育をする学校も増え、あるいは独学で日本語を学ぶ場合でも、インターネットで実に手軽に機会を得ることができるなど、私が住んでいた時代とは、まさに隔世の感があります。
そんな時、「じゅもんがちがいます」の画面を見て呆然としていたであろう、あのゲーム少年たちは、今どうしているだろうか、と思い出します。きっと何人かは日本語の達人になっているのでは、と勝手に想像しています。
(*写真はインターネットからの転載です)