映画「一八九五」と 二二八
この度ご講演頂きました立石氏、范氏、貴島氏です。映画が切欠となりましたので、皆様のお写真も少しフィルム風にアレンジ!
左は映画で森鴎外を演じた貴島氏、右はプロデューサーの范氏
二二八事件発生時の貴重な体験談を頂いた立石氏
2017年2月11日(土)第48回「日本と台湾を考える集い」を開催しました。
講師の方を含め64名の方が参加されました。その時の様子をレポート致します。
By ふぉるもさライダー
第1部 対談・台湾映画「一八九五」について
2008年に公開された台湾映画「一八九五」にゆかりのお二人に対談頂きました。
お一人は、この映画のプロデューサーであり、台湾映画「湾生回家」、日台合作映画「南風」もプロデュースされた范健祐氏。亜細亜大学/東京大学への留学経験をお持ちで、流暢な日本語でお話しされました。
以下、講演頂いた主な内容です。
日清戦争後に下関条約が締結され、台湾の日本への割譲が決まりましたが、そのことは現地台湾には知らされておらず、台湾人にとって日清戦争の顛末は、本来関係のないことでした。
この映画は、1895年、清国から割譲された台湾を接収するため進駐してきた大日本帝国陸軍と、これに抵抗した客家(はっか)人義勇軍の対決を取り上げたものです。
帝国陸軍は、当時東洋で最も精強と言われた近衛師団。一方、台湾全島の統治者がいない中で、客家人は郷土を守るために近衛師団に対しゲリラ戦を展開します。陳水扁政権の行政院客家委員会が資金等を全面的に支援してこの映画ができました。残酷な戦闘シーンは入れない、というのが客家委員会のスタンスでした。学校でも、客家の歴史や文化を学ぶための教材として使われています。
原作では森鴎外については記載がなかったのですが、私は日本に留学した際に森鴎外原作の映画「舞姫」を見て、森林太郎の名前を覚えました。森林太郎が近衛師団に軍医として従軍した折りに書いた日記を読み、更に日本軍の指揮を執った北白川能久親王の経歴も研究して、これが「一八九五」の切り口になります。それで、映画の脚本では若き日の陸軍軍医森林太郎(森鴎外)に光を当てました。このことが縁で森鴎外のひ孫の方から連絡があり、友人になりました。
2007年に台湾高速鉄道(台湾新幹線)の試運転が始まりました。撮影中に新幹線が映り込まないように撮るのが大変でした。
2008年の8月に「海角七号」が公開され、そのあと11月に「一八九五」を上映して台湾映画がブームになりました。台湾人以外が主役になった初の台湾映画です。
台中市郊外の新社台地に灌漑施設「白冷圳」を建設したのは、嘉南大圳の八田與一氏の後輩にあたる磯田謙雄(いそだのりお)技師でした。「水利の父」と呼ばれる彼の功績をいま調べていて、今春からドキュメント映画を製作します。
もう一人は、この映画で台湾に進駐した陸軍軍医 森林太郎(森鴎外)を演じた俳優の貴島功一朗 氏。
台湾で、谷 炫錞(グー・シュンチュン)の名前で知られる関西出身のイケメン俳優さんです。愛称は「KOU」。
台湾のテレビドラマやCMに出演。日本では、ハゲタカ(2009年・映画版)の李克仁 役で出演されました。
以下、講演頂いた主な内容です。
大卒後、芸能関係の仕事がしたくて台湾に渡り、中国語を勉強。現地でスカウトされて10年滞在し、映画やドラマに出ました。日本人では台湾のCMにいちばん多く出ているかもしれません。そのぐらい本腰を入れ、台湾ではたくさんのチャンスをいただきました。
「どうすれば日本人の彼氏ができるか」をテーマにした本も出しました。
実は、夢を追いかけて台湾に行ったことで、父との間にわだかまりがありましたが、台湾でドラマの主演をして、父と和解できました。
映画「一八九五」で森鴎外に扮することになって、森鴎外に関する本を日本から取り寄せて役作りを研究しました。演じさせていただいて、台湾側の立場からの出来事と日本軍の立場からの出来事、そしてそのすれ違いが描かれていて、面白い角度で捉えていると感じました。
みんぱく(国立民族学博物館)で「一八九五」試写会が行われた際には、収容人数を大きく上回る集客となり、みんぱく始まって以来だと言われました。台湾原住民の台詞の字幕には関西弁が使われていました。
2010年に帰国し、鍼灸師の免許を取りました。家業を継いで西宮で開業しています。帰国後、台湾と日本に関連することをより一層研究し、映画の材料にしたり、交流を深めたりするようになりました。台湾のファンの皆さんとの交流は今も続いていて、今年は訪台したいと思います。関西にいて、できることを考えていきたいです。
貴島氏のバラエティーに富んだ自己紹介からトークは始まりました。
范氏からも映画作りの秘話や着想に至った背景等興味深い話が一杯でした。
いつもとは違う集いの雰囲気の中、お二人の話に聞き入る参加者の皆様。
役柄を深める為に森鴎外を調べるうちに見つけた隠れ話?を披露。
最後は何と参加者へのプレゼント!
抽選の代わりに皆様でジャンケンを行いました。
最後にお二人から台湾への思いを一言。
范氏には度々集いへおこし頂きました。
貴重なお話、有り難う御座いました!
第2部 二二八事件 台北での目撃談 立石昭三氏
私は、1935年台北生まれの湾生です。1年生のときに太平洋戦争がはじまりました。始めのうちはシンガポールや香港を陥落させて華々しく提灯行列をしましたが、次第に空襲が激しくなり、3年生で台北郊外の三峡に疎開。いちばん記憶に残っているのは飢えたことで、かぼちゃや冬瓜はもう一生分食べたから、今後も口にしないでしょう。5年生の時に敗戦を迎えましたが、父が台湾大学に留用され、残れるだけ台湾にいることにして、1949年8月の最後の引き上げ船で一家が帰国しました。
学校がなくなって突然自由になり、生物が好きだった私は、手製のパチンコで鳥を捕らえたり、川をせき止めて魚を採ったりして遊んだものです。やがて蒋介石政府が用意した日本人子弟の小学校・中学校ができ、そこに通いました。
また、残った日本人の中で大学の先生が教壇に立つ学校が組織され、一流の先生から教わることができました。
終戦後、いちばんびっくりしたのは、大陸から台湾に渡ってきた国民党軍のいでたち。行進しているのは、戦勝国の軍隊とは思えない、唐傘に衣類をくくりつけて鍋釜をぶらさげたバラバラの服装の軍隊、それが蒋介石軍でした。その後の彼らの政治は、中国大陸と同じやり方で賄賂なしでは動かないし、庶民のものは勝手に強奪するという具合でした。私も通学途中に、「接収!」と言われて鉛筆やノートを取り上げられたことがあります。私の家も国民党の兵士が来て接収。家族は1つの部屋で暮らしました。彼らは押し入れにペンキを塗って寝室にしていました。そのうち、国民党から「家を貸すなら接収しない」と言われて応じました。インフレも激しく、給料が出るとまず銀貨に変える必要があったほどです。
1947年2月に発生した二二八事件のことは良く覚えています。
「榕樹文化」という雑誌は、台湾からの引き揚げ者が京都で年4回発行しているものですが、この雑誌に事件のことを投稿した記事が、お手元に配布した資料です(榕樹とはガジュマルのことです)。
2月27日、台北市で闇タバコを売っていたおばさんに対し、取締の役人が暴行を加え、周りの台湾人がその役人をたたきのめしたのをきっかけに、翌日にかけて台湾全土に暴動が広がりました。台湾人は大陸から来た外省人をやっつけたけれども、国民党軍は大陸から増援部隊を呼び寄せて、反乱勢力を鎮圧。優勢になった国民党軍は反乱した台湾人を次々に処刑。トラックの荷台に後ろ手に縛られた台湾人。彼らの背中には大きな団扇が刺してあって、この男は政府の悪口を言った、等の罪状が書かれています。彼らをトラックから降ろしひざまずかせて、モーゼル銃で頭を撃ち抜くのです。貫通力の強い銃なので、向こうに土煙があがります。切り離された首は、市中に掲げられました。まさに獄門です。
本当に二二八事件は、子どもに悪い印象を残しました。
その後戒厳令が38年間続きました。現在、本当に民進党の世の中になったことを、台湾の人達はどれほど喜んでいることか。台湾国際放送を聴いているとよくわかります。
国民党に貸した家には、日本軍の将校(陸軍中野学校の卒業生)がやって来ました。彼らは蒋介石軍に雇われていたらしく、ジャンクで中国大陸へ行ったり、米軍機で日本まで往復したりして諜報活動をしていました。はじめは私にわからない中国語で会話していて、私が中国語を少しわかるようになると、ロシア語に切替えて話していました。キャノン機関に属し、国鉄総裁が暗殺された下山事件に関わったようです。
ある日、紙切れひとつ残さず、挨拶もなしにいなくなりました。
戦後の台湾ではこういうことはちっとも不思議ではなかったのです。
終戦後、日本人の台湾からの引き揚げ後も留まり続ける事を求められた台湾であの二二八事件が発生します。混乱を極め、台湾暗黒の歴史と呼ばれる時代の悲しい幕開け。果たしてあの日、その場所で立石氏は何を目撃したのか。淡々とした語り口から語られる衝撃の事実は今の台湾の姿からは想像もできない過酷な現実でした。長年閉ざされて来た二二八、そしてそれ以降の時代を体験者から聞ける機会は滅多にございません。あなたがもし台湾好きというならば、台湾のもうひとつの真実の物語にも耳を傾けてください。
最後は私どもの代表、副代表とご講演頂きました皆様と集合写真を頂きました。
立石様、范様、貴島様、有り難う御座いました!!
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