20171029 第52回集いを開催致しました!

台湾人として日本人に望むこと

 10月29日、台風の近づく中、京都は伏見稲荷にて第52回集いを開催致しました。今回はいつも講演頂いている近代史から少し時代を下り、台湾の現代史をその時を実際に歩んで来たお二人に講演頂きました。一人目は李さん、二人目は杉中さんです。李さんからは台湾人が台湾で日々の生活の中でメディア等を通じて見て来た現代の日台交流、日本人が知らなかった台湾人の日本に対する思いをご自身のご経験から存分に語って頂きました。次に杉中さんからは同時代に留学生として滞在したご経験から始まり駐在されていたときのご経験をもとに日本人の目からみた日台交流を語っていただきました。


講師ご紹介

 

李久惟(リ ジョーウェイ)氏

1975年台湾高雄生まれ 拓殖大学客員教授。多言語文化研究会代表、日本李登輝友の会理事。専門は語学教育、歴史、比較文化、国際関係論、異文化コミュニケーション。2000年東京外国語大学卒業、台湾高速鉄道(新幹線)プロジェクトに従事。15言語以上を話すマルチリンガルであり、野球やサッカーの国際大会や沖縄国際映画祭などさまざまな分野における通訳・翻訳を経て、現在は通訳翻訳会社の経営に参画する傍ら、主に教育分野で語学講師・セミナー講師として活躍。さらには多くの国際交流事業や講演・執筆活動を行う。主な著書に「台湾人から見た日本と韓国、病んでいるのはどっち?」「台湾人が警鐘を鳴らす病的国家中国の危うさ」(共にワニブックスPLUS新書)、「本当は語学が得意な日本人」(フォレスト出版)、「日本人に隠された《真実の台湾史》」(ヒカルランド)等がある。


講師ご紹介 

杉中 学(すぎなか まなぶ)氏

1956年生まれ。日本獣医畜産大学(現:日本獣医生命科学大学)在学時に父が単身赴任していた台湾を訪れたのが、台湾との関わりのきっかけ。大学卒業後、商社勤務の後、台湾師範大学国語教学中心で2年間中国語(北京語)を学ぶ。

帰国後、日本企業の台湾駐在員として台北・台南に駐在。その後友人と台湾現地紙の翻訳サービス「台湾通信」を起ち上げるも、ビザの問題から帰国。製薬会社の国際部門に在籍し、主に中国語圏のビジネスを担当、7年間の中国青島での駐在をはさみ、約25年奉職し、今年定年退職。

ノンフィクソン作家・門田隆将氏の「汝、ふたつの故国に殉ず」執筆に際しては、インタビューの通訳や資料の翻訳・分析などで協力している。中国語通訳案内士。

 


当日の講演録

 

講演1 台湾人として日本人に望むこと   李久惟(リ ジョーウェイ)氏

 

「たけほー」 (皆さんこんにちは。)

 私が多言語をたしなむのは、言葉から文化を学ぶことを大事にしているからです。学生時代から国際試合の都度、通訳をしてきました。日本語世代ではありませんが、自分なりに日本と台湾を考えるひとりとしてがんばっていきたいです。

 

 台湾新幹線の立ち上げにも翻訳などで携わり、日本の新幹線が台湾をはじめて走ったときには関係者と涙しました。祖父母の会話が日本語だったので、台湾語になっているような言葉は、子どもの頃からわかりました。台湾人には日本語が話せなくても日本語の歌を歌える人がたくさんいます。台湾と交流する上では日本人もそうされるといいですね。

 

 修学旅行の行き先で、生徒数では台湾が1位になりました。学校数で見ると、アメリカへ行く学校が多く、台湾は2位、シンガポールが3位です。台湾から日本へは年間417万人(台湾人の5人に1人)が来ています。日本からは190万人(26人に1人)です。日台間の就航便も、地方空港との運航頻度も増えていて、日本と台湾の間には717便が1週間に飛んでいます。1日100便が飛んでいることになります。鳥取県の倉吉では、家族旅行など小グループの台湾人を見かけます。高知の桂浜にも、台湾人がたくさん来ています。桂浜でアイスクリームを売っている人は、台湾人と中国人の区別がわかるそうです。静かに風景、建物を見て、碑文を漢字で追って日本の文化に触れ合おうとしているのが台湾人でやさしい感じがします。一方、甲高い声で不快な感じがするのが大陸からの旅行者です。

 

 台湾人が日本に来て困っていることのひとつに、「中国語を話していると嫌がられる。」があります。中国人と間違えられるからで、台湾人は小さい声で話すようになりました。今日は、台湾人が人によっていろんな歴史観を持っていることなどをわかってほしいです。岩手めんこいテレビの取材クルーが台湾を訪れ、新渡戸稲造と伊能嘉矩(いのうかのり)について取材しました。伊能嘉矩は、後藤新平よりも早くに台湾入りして台湾を一周し、原住民を研究した文化人類学者です。日月潭の近くでツァオ族の里を訪ねたのですが、日本人が行くと「マーヤが帰ってきた!」「あなたがたはマーヤでしょう?」と言って歓迎されました。マーヤというのは、自分と血のつながりがある兄弟のことです。

 

 通訳の仕事では、日本企業の台湾視察に支援随行することもありました。そのときに感じたことを紹介します。

 

 日本の製品は高品質です。アジアとの競争で負けたのは、「機能が揃いすぎているせい」だと思います。もっと安くて機能が限定されていれば、負けなかったのではないでしょうか。値段も品質も日本製は下げられないもとで、他国製が基本的な機能だけに抑えて何割か安い価格で出てくればそちらが買われます。日本製は高すぎて売れないのです。

 

 建築関係の日本の資材会社が台湾側と商談する場にも立会いました。台湾企業はその製品が欲しいのに、値段の折り合いが付きません。3年経って台湾企業が日本側からの信用を獲得できた時には、台湾企業はもう商品への興味をなくしていました。この間に競合商品も出てきているので、今度は台湾側がすぐには返事しません。取引ではスピード感が大事。「もったいないなぁ」と思うことがよくありました。

 

 台湾と日本の国際試合では、お互いに応援しあう場面をよく見かけます。野球場で、お互いに1塁側・3塁側に分かれて座っているのに、ウェーブが起きると途切れません。お互いに感謝を示すカードが掲げられます。日台戦のあとで、台湾選手が円陣を組んで、全方向の観客に深々とお辞儀したのは有名ですね。

 

「ありがとう台湾」を呼びかけた人はたくさんいました。

 

2012年に東京ドームでチャリティ野球試合が開催されたときに、東北から1万人以上を招待したことがありました。その時に「台湾ありがとう」の横断幕がすでにありました。)愛知で日台若手交流会の活動をしている加藤秀彦さんも名古屋から試合に応援にきていました。同時多発的に日本中から「台湾ありがとう」の声が湧き上がったのが事実なのに、フジテレビは、ひとりのツイッターから運動がはじまったかのようなストーリーに仕立てて放送しました。ツイッターの主は、自身は訪台したことはないものの、父親が台湾の駐在員をしていて、台湾は良かったという話をいろいろ聞いていました。なんとか台湾にお礼を伝えたい・・・それが形になったのでした。

 

 吉本がエンタメ学校を沖縄に作ろうとしています。沖縄には、いま不穏な空気が漂っていますが、私は台湾の立ち位置で仲をとりもちたいです。台湾では、東日本大震災の義援金を集めるテレビ番組が、1か月以上続きました。募金の最高額は「宝くじの当選金額全額」でした。台湾選手が円陣を組んだ、あのときに、「自分達は試合に勝って喜んでいた」のを、日本選手は恥ずかしく思ったそうで、その後の日台の親善試合のときに感謝の横断幕が掲げられました。

 

 チキンラーメンを発明した、日清食品創業者の安藤百福さんは台湾人で、そのお孫さんの代が、 東日本大震災のときに、ラーメンキッチンカーで被災地を応援しました。気仙沼や石巻で、被災した住民に現金を直接配ってまわった台湾人もいます。また、「現地に何が必要か」のニーズを聞き取りにきて、現場で求められるものを寄附した例もありました。

 

 これらは、99年の集集大地震のとき、日本がいち早く救援に動いたこと、そのときに日本の救援隊が、台湾人の遺体を丁重に扱ってくれたことへの感謝の現れでもありました。集集大地震の際に日本から渡されたお金で、台湾側は救援装備を整えることができ、今回の東日本大震災では、それが活用されました。そして今回は、台湾の救援隊が日本人の遺体を丁重に扱いました。

 

 エバーグリーングループの張栄発会長(故人)は、東日本大震災直後に個人名義で10億円の寄付をしたことが知られています。奧さんが日本人で、海運会社と縁が深かったのです。家族で日台の絆を深められました。台湾のパソコンメーカー「エイサー」の技術者がパソコンの内部に「日本に神のご加護を」のメッセージを会社に無断で入れ、日本人ユーザーが感動したという話もありました。311震災の支援への政府の感謝セレモニーで台湾代表が2階の一般席に案内された件は、非常に失礼なできごとでしたが、失礼な仕打ちだと思って台湾側に聞いたら、外交部の人からは 「私たちの献花場所のことで、日台の間柄が変わりますか?」と返されました。翌年のセレモニーでは、台湾代表にきちんと礼を尽くして対応したことに対して、中国が出席をボイコット。大人げのない中国との接し方を、日本人は考え直すべきです。

 

  沖縄国際映画祭で311の義援金を集めた際には、台湾映画界からも出席者があり、台湾のメディアの人達はその場で台湾に電話をかけてくれて、3月18日からは台湾でチャリティ番組が毎日行われました。自分の顔や手に日本語の文字を書いたり、学校でメッセージを掲げたりして、「日本の平安を祈ります」のムーブメントで祈りの心を届けることも、自分達でできる日本応援の取組みとして台湾各地で行われました。

 

   震災後、関東が電力不足になり計画停電をはじめたとき、東電の火力発電所が世界にSOSを発信して、アメリカ等から発電器を確保しました。その据え付けに、アメリカからも通訳が来ましたが、通訳の人手が足りません。日本人にも呼びかけたのに、国難のときに有償ボランティアで通訳してくれる人が日本では少なかったのです。現場は3Kの環境ですから、ことごとく日本人には断られました。言葉ができる人間を増やして、「お金ではなく人のために動ける人を育てたい。」と思います。

 

  ボランティア活動で感じたのは、「台湾人は恩返しをする民族」だということです。高雄と台南では陳菊市長(高雄市)・頼清徳市長(台南市)が率先して、市民からの熊本地震の義援金募金を始めました。それで、1ヶ月半で集められたお金が2億円以上になりました。新たに開通した高雄MRTの車両には、一面にくまモンが描かれ、「熊本頑張れ」のメッセージになりました。

 

 日本統治時代、日本人は献身的だったと思います。

 4代総督までは台湾をフランスに売却してはどうか、という議論さえあったほどです。当時の台湾には阿片常習者が多く、産業がない。烏山頭ダムの話も、最初は大風呂敷だと思われていました。日本が台湾を統治したことの功罪はどちらもあるでしょうが、農業と水の問題を解決してくれたり、衛生状態の改善や教育で技術と精神(魂をこめて相手のためにモノづくりをする)を教えてくれたりしたことは、台湾の発展に大きく貢献しました。烏山頭ダムのモーターなど、メーカーはもうなくなっていますが、メンテナンスの技能も日本が残してくれたおかげで、今でもまだ稼働しています。戦後、台湾バナナをいちばん買っていたのも日本で、蒋経国の産業化政策を支えることができたのはそのおかげでした。戦後の台湾の国家建設の基礎も戦前の日本のインフラをベースにできました。

 

 台湾の3040代は反日教育を受けて育った世代で、歴史も中国大陸の歴史しか習わなかった。歴史認識が不足しています。皆さんは、「仕掛けられた反日行動」に躍らされてはいけません。八田與一の銅像を壊したのは、中華統一促進党のメンバーです。また、漁船で尖閣諸島への示威行動をしているのは、もともと日本から技術指導を受けていた台湾の煎餅会社ですが、乗っ取られて、もはや台湾企業ではありません。

 

 台湾は多言語社会です。共存していかないといけません。ひまわり学生運動でわかるように、もう出身で区別をつけるのではなくて、未来の台湾を考えていくべきです。日本と台湾は国と国の関係でありたいと思います。日本からは、大臣級の公的な訪台がありません。中国の政府に過剰な気遣いをせずに、歴史認識で自信を失わずにいてほしいです。そして、おごらずにいてほしいです。おごると周りが見えなくなりますから。

 

 

 

 日本人には戦前、語学力がありました。台湾人は、日本人の先生から外国語を教わったのです。若い人には中国語や台湾語を学んでほしいですね。日台は運命共同体です。感謝、報恩を大事にする、利他の心など日本精神をベースに絆を深めていきたいです。

 

「台湾よとこしえに幸なれ」

 昔の日本人が書き残した資料が最近発見されて、台湾の若者が拡散しています。

 同じ言葉「日本よとこしえに幸なれ」を日本にお返しして、お話を終わります。

 

 

講演2 台湾と私 ちょっと前のお話  杉中 学 氏

 

 これからお話するのは、台湾との国交断絶後のお話です。台湾への留学で、1979年にはじめて訪問しました。当時、訪台時には政治の話は禁止され、男性の長髪もNGでした。日本の新聞は数日遅れで手に入りますが、中国のことを書いてある部分は、墨塗りされたり、または切り取られていたりしました。テレビは党、軍、省政府の3CHのみ。家庭電話は共産勢力に聞かれているかもしれないからという理由で、みんな政治の話はしませんでした。ときどき使う国際電話は、とくに盗聴されているっぽい感じがしました。

 

 ちょうど台湾留学の秋にマクド1号店が出店。コンビニなんてなかったので、お店では、値段がいくらか聞かないと買い物できない時代でした。当時台湾では注音符号(ポポモフォ)が100%使われていて、日本での勉強は簡体字とピンインだったので全然違いました。

 

 1986年からは、製薬会社の駐在員に。

 

 屏東の個人医院を訪問したとき 原住民のおばあちゃんが「先生ありがとうございました。」と言うのを聞いて、そこから、日本統治時代のことなどを意識するようになりました。

 

戒厳令の時代

・バス車内に密告を奨励する広告・・・共産党のスパイを見つけたら1500万円と書かれていました。

・圓山大飯店の場所、遊園地の丘の横には武器倉庫?らしきものがあり、高速道路の料金所には兵士の姿が。

・夜中の仁愛路で、双十節の戦車パレードの予行演習に出くわして、慌てて帰宅しました。

・蒋経国総統の死去で、テレビ番組がモノクロ画面に変わりました。

 

解厳

1992年ごろ 二二八事件の政府調査報告の翻訳ができました。

麗水街の豪邸に、いつも兵士の警護があって、地元の人に尋ねると、二二八事件当時の高雄の司令官の家でした。

 

こんなことをご存知ですか?(当時)

・映画館で、上映前に国歌が演奏され全員起立するので、台湾に来ている留学生も国歌を覚えました。

・バス車内には、何カ所もヒモがぶら下がっていて、それを押すと降車ベルが運転席で鳴るようになっていました。

・憲兵隊は、市内を巡回していました。

・町にあふれるワカメちゃん・・・女子中高生は、サザエさんのワカメちゃんのヘアスタイルで、全員同じでした。

・台湾のタクシー運転手の腕は世界一だそうです。二流だと死ぬからです。

沖縄からの留学生の国籍は琉球でした。

 

その後、私は、最近読売テレビ「そこまで言って委員会」の准レギュラーをつとめている、門田隆将さんが本を執筆される際の資料翻訳などを手がけました。

 

  台湾で皆さんに見ていただきたいところ

 ・新竹駅の近くに「竹東 大生堂薬局」の看板を掲げているお店があります。昔から使われている看板で、店の人が朝最初に確認することは、夜のうちに看板がなくなっていないかどうか確かめることだそうです。台北の二二八記念館の2階に、事件の犠牲者となった方(嘉義の歯科医・呂先生)の遺書が展示されています。亡くなる前日に日本語で書かれた遺書が胸を打ちます。

 

【質問】

 台湾と韓国はどちらも日本の統治を経ましたが、両国の日本への視点の違いはどこから来ると思われますか?

【回答】

 学生時代に韓国語を勉強して一人旅しました。人それぞれだと感じましたが、公には日本を評価してはいけない空気がありますね。

 

韓国とは、根本的に歴史観が違うと思います。朝鮮民族としては同じでも両斑と奴婢で差別があったし、南北に別れた悲哀もあります。宗教観も台湾や日本と違います。

 

 台湾は多神教で先祖も祀るので、日本に近いです。

台湾では二二八事件の行為は許せないけれども、命令を受けた軍人や、当事者の子孫に対しては、敵(カタキ)として見るよりも、「過去は過去」というスタンスです。大きな包容力であだを徳で返す、相手の中に入って大きな力で変える方が良い、という考えのように思います。


当日の様子