20180422 第54回集いを開催しました!

羅國隆氏

辻井正房氏


日台関係の一層の強化に向けて

 第54回は台北駐大阪経済文化弁事処文化教育課長の羅國隆さん、日本李登輝友の会常務理事の辻井正房さんから貴重なお話を、そして「集い」事務局スタッフのふぉるもさライダーさんから直近の台湾旅行体験談を頂きました。

 

 台湾と日本の交流は地震の際の相互の助け合いからも見て取れる通り益々深まっております。その規模も益々大きくなり人の行き来は年々増加の一途を辿っております。これからは国レベルの交流から自治体レベルの交流に重きを置き日台交流推進して行く事になる、と羅課長は語ります。また、李登輝元総統に出会い、その言葉に感銘を受けた辻井さんはこの4月、中華民国外交部長(外務大臣に相当)から「外交の友貢献賞」を受賞しました。75歳と齢を重ねながらもまだまだ現役で力強く民間交流を推進しております。ふぉるもさライダーさんは、台湾好きが高じて 「湾製」 のバイクを愛用するようになった、当集いのスタッフです。今回は台湾の離島・澎湖島でのバイク旅の体験を語って頂きました。

 


講師ご紹介

羅 國隆氏(台北駐大阪経済文化弁事処文化教育課長)

台北駐大阪経済文化弁事処文化教育課長

1954年 台灣台南市生まれ

1975  台灣国際商業專科学校(短大)会計統計系卒

1983年 拓殖大学商学部貿易学科を経て修士取得

1983年 亜東関係協会東京弁事処入職

1990年 中華民国教育部国際文教処入職

2015年 台北駐大阪経済文化弁事処文化教育課長 

 

 

辻井正房氏(日本李登輝友の会常務理事)

昭和17年生まれ、大阪府吹田市在住。 昭和41日本大学芸術学部卒。 千里丘タクシー㈱代表取締役社長ほか千里丘観光開発㈱役員自衛隊摂津協力協会会長 、大阪日華親善協会理事、日本台南市後援会 顧問 


当日の講演会内容をご覧ください。

 

 

 

(講演1) 台北駐大阪経済文化弁事処文化教育課長 羅國隆 氏

 

  こんにちは。今日は総領事が来られず、課長の私が参りました。皆さんはもしかすると台湾のことについて私よりも詳しいかもしれない。一緒に勉強して行こう。

 

  台湾と国交がないため、日本の学校でも台湾のことをとりあげることは少ない。この集いの活動には日台の事情を伝える交流の場を提供下さっていることに対し感謝している。今後長く会合が続けていけるようにお願いする。

 

  私は台南の烏山頭ダムの上流の山奥の方で生またので、子供の時に親から八田与一様のことを教わり、レコードで日本の演歌を聞き、日本に憧れを持った。そして高雄市の短大入学時に日本語の授業ができ、日本語をもっと上手になるため補習班で夜にも勉強した。それから日本への留学をして卒業後に教育部(文部科学省に相当)へ就職し、そして日本勤務の機会を得て日台文教交流の事務を推進していくことができ、本当に幸運だと思っているので今後もっと仕事に励むとともに皆様のご協力をお願いしたい。

 

  台湾は日清戦争後日本統治時代になり、日本は国勢調査、戸籍制度の整備、教育、鉄道敷設などを施行し、台湾の発展に貢献した。八田与一様は台湾に烏山頭ダムを作り、大変な貢献をしたので、台湾でいちばん有名な日本人になった。烏山頭ダムは建設当時60年の寿命とされたが、わが台湾政府がダムを継続使用していく時の安全かどうかの専門家委員会を立ち上げ、検査した結果、引き続き活用できるとの結論が出された。

 

  あとからできた大きい曽文ダムの水を烏山頭ダムに引き込むようになって、以前よりも活用用途が広がった。今では、農業用水、民生用水、工業用水、観光及び発電にも使っている。烏山頭ダムの水で善化の酒製造工場でビールも生産している。(別名「八田ビール」と呼ばれている。)ダムの近くにあった当時の八田与一様らの住居も復元され、記念公園に整備された。今や日本と台湾の交流のプラットフォームになっている。

 

   台日間で民間交流 文化協力交流がスムーズに行われている。これまで両国の窓口機関として機能してきた台湾側の亜東関係協会、日本側の交流協会は、それぞれ2017年に、「台湾日本関係協会」、「公益財団法人日本台湾交流協会」へと名称を変更し、今後一層の交流活性化が期待されている。

 

 2016年に行われた台湾での世論調査では、「あなたの最も好きな国はどこですか」という質問に対して、56%の台湾人が「日本」と答えている。また、日本人の台湾に対する意識調査(201711月)によると、「台湾に親しみを感じますか」の質問に対して、「親しみを感じる」の回答が29.9%、「どちらかというと親しみを感じる」が39.1%で、合わせて69%になっている。

 

  BSE(牛海綿状脳症)の影響から台湾は2001年以降、日本産牛肉の輸入を禁止していたが、昨年9月18日付で解禁した。

 

  台湾は日本と同じ価値観を持ち、近くて安全な国、物価も安い関係で、日本の高校生の修学旅行先は、去年はじめて台湾がいちばんになった。台湾の教育システムは日本と同じ、現在も沢山の留学生が交互に留学をしている。両国のスポーツ、文化芸術交流も盛んに行っている。

 

  中国の台頭でアジアが不安定になっている。台湾と日本は運命共同体であり、日米台が協調して第一列島線を守らないといけない。これからの友好関係を展望すると、台日は普遍的価値観を共有していて、各分野において協力が可能だ。そうすることでアジアの地域安定にも役立つ。今後の両国関係の目標は、地域交流の強化。すでに80を超える姉妹協定などがむすばれている。

 

  「日本と台湾を考える集い」の活動を、ぜひこれからも大いにやり続けていくようお願い致します。

 

 

(講演2) 日本李登輝友の会常務理事 辻井正房 氏

 

 はじめて台湾に行ったのは1979年。ここ10年で、台湾のことに強く関心を持つようになった。私と台湾とのこれまでのつながりについて紹介したい。

 

  日大の芸術学部に入り、ワンダーフォーゲル部に所属した。尾根歩きや街道歩きを楽しんだ。沖縄に行くにはパスポートが必要だった時代、パスポートなく行ける西端の与論島を訪ねた。休みのたびに通い、島の人が親戚のような存在になった。今も交流を続けている。就職は映画配給会社MGMの宣伝部。当時、「風とともに去りぬ」がドル箱だった。ロードショーがはじまる時には監督やスターの舞台挨拶があり、彼らが大阪に来ると決まって京都見物に案内した。「ドクトル・ジバゴ」でジバゴの妻トーニャを演じたジェラルディン・チャップリン(チャールズ・チャップリンの娘)も太秦に案内したことがある。妻の叔父が阪神タイガースの球団社長という縁で、広告制作代理店の仕事に関わるようになった。タイガースの自主トレやキャンプにも同行。掛布を使ったキンチョーのCMを作ったりした。キンチョーの社長は青年会議所の先輩だった。

 

  その後、大阪で親の会社を継いだ。

 

  青年会議所(日本JC)は青年実業家で構成され、40歳までしか活動できない組織。アメリカからキッシンジャー氏を招いて開催したイベントでは全国から3,000人を集め司会をつとめた。JC時代に、全国のいろんな人とつながりができた。自分の所属するJCが台湾の団体と姉妹提携することになり、1979年に大甲(現 台中市)の国際青年商会を訪ねた。そこから台中の団体との交流が続き、台中で宴会、台北に戻って帰国日の朝ゴルフという活動が永らく続いた。今振り返っても、戒厳令下、政治の話は全くしなかったように記憶している。

 

 2010年に、台中近くの観光に行き、日本のものがたくさん残っていることに改めて気づいた。李登輝さんや片倉さん等の本も読み、そこから李登輝友の会の活動に加わるようになった。翌2011年には、自衛隊関係の団体で、馬英九総統を表敬訪問。圓山大飯店で、李登輝元総統に「日本人がんばれ」と発破をかけられて涙がでた。李登輝学校には第16回から第23回まで、ほぼ参加している。

 

 そこで知り合った近藤さんに誘われて台北で食事会に参加した。このことが今日につながっている。出てこられる限り参加していろんな講師の話を聞きたい。

 

 李登輝友の会の大阪支部長としての活動に入り、李登輝さんを招聘して大阪で大きなセミナーを計画。大阪講演会・実行委員会委員長の立場で準備に打ち込んだ。2014920日(土)の夕方、大阪府立国際会議場(グランキューブ大阪)のイベントホールに、1,600名規模の参加者を集め「これからの世界と日本」を熱く語っていただいた。セミナーは70人のスタッフの協力で大成功。そのことでいろいろと良い評価をしてもらえ、大事にしてもらえるようになったと感謝している。李登輝氏は、3年連続して日本に来てくれ、毎回随行した。

 

  さきほど羅課長さんから紹介されたように、台湾から日本への旅客(2017年)456万人に対して、日本から台湾へは190万人であり、日本に来る台湾人の半分も日本から行っていないのが現状だ。

 

  会社経営を若手に委ね、時間的余裕ができたいま、自分で自覚しているくらい生き急いでいる。年に6~7回は訪台し、去年は、蔡焜燦氏の自慢していた清水公学校を見に行った。次の世代の人に日台の交流を引き継ぐことが自分の役割だと思っている。

自分の母校では、高校の修学旅行にマレーシアに行っていたのを、3年前から台湾に行ってもらっている。

 

 現在、私は大阪日華親善協会の理事を拝命し、日本台南市後援会の顧問にも就いている。

 20184月には、思いがけず中華民国外交部長(外務大臣)から、「外交の友貢献賞」を受賞した。表彰式に先立ち、頼行政院長も表敬訪問させていただくことができた。

 

 日本の国会議員の多くは中国派だ。蔡英文総統と安倍総理の間柄だから、日台の関係がここまで深まったように思う。せっかくここまで密接になった関係をさらに深めてほしい。

 

 75歳を迎え、あと何年がんばれるかわからないが、台南の飛虎将軍廟にお参りするたびに「また来られますように」と祈っている。

 

 

  (3) 意見交換

 

 ① この集いの活動の紹介 (事務局より)

 

 「日本と台湾を考える集い」は今年10周年を迎える。過去の開催実績を見てもらうとわかるように、様々な課題を取り上げてきた。今後も台湾をいろんな立場で考える場にしていきたい。

 

 烏山頭ダムをユネスコの世界遺産に登録しようという活動に「集い」も携わった。台湾が国連に加盟していないことから難しいが、記念公園の整備が実現した。また沖縄と台湾の関わりは昔から深く、台湾に渡り漁法を伝えた沖縄の漁師らの生活と現地での交流の歴史を後世に伝えるための「琉球ウミンチュの像」が基隆に完成(201112月)した。さらに沖縄にはまだない台湾人戦没者の慰霊施設をつくる取り組みにも関わり、「台湾の塔」が完成(平成286月)した。これらはすべて講師にもお招きした澎湖出身の許光輝さんが提唱したものであり、現在、李登輝元総統の揮毫による新たな碑の建立が実現する方向に向かっている。

 

会場より質問

 

② 李登輝氏の健康状態はどうか。

 

辻井氏より回答

 今年1月に95歳になられた。2年前に脳が詰まり指が不自由になった。去年4回会う予定がドクターストップで当日になって会えないことが2回あった。現在は、「台湾和牛」~日本統治時代に台湾に運ばれた和牛の血を引くとされる、台湾に残る数少ない台湾牛を品種改良したもの~を花蓮で育成する活動に力を入れている。また、新たな政治団体「喜楽島連盟」を立ち上げ、台湾独立の国民投票を来春やろうという話をすすめている。また日本にも来たいとおっしゃっている。

 

③ 震災支援でお世話になった台湾のことを勉強しようとしても図書館に全く本がなかった。台湾の郷土学習用の副読本を日本でも手に入れ  て販売することはできないのか。

 

羅課長より回答

 国交がないから日本では台湾のことにふれていない。国内3ヶ所の華僑学校には図書を送って来ている。大阪中華学校には台湾紹介の書類が少しはあるので、先生に連絡すればいいと思う。日本の書店での扱いは営業的に難しいのではないか。

 

事務局より回答

 教育現場には第三者が入ることが難しい。片倉佳史さんの本を地元の図書館に置いてもらうようリクエストする活動には、取り組む意義があるのではないか。台湾に関する本へのリクエストが多くなれば、動きが出るかもしれない。

 

 台湾では、台南市安南区の小学校で郷土史として飛虎将軍のことを教えている。絵本を作りすばらしい活動をしている。

  飛虎将軍廟の解説パンフレットは、集いのFacebookページにカラーで紹介している。

 

 日本は戦後、台湾を見捨ててむこうの人に大変ご苦労をかけた。それなのに、台湾に貢献した昔の日本人のことを、きちんと伝承してくれている。日本でも教えてもらえるといい。

 

台湾に在籍している日本人学生が8,000人を超えた。台湾からも日本の大学にどんどん留学している。留学の状態について、羅課長さんから詳しくお話いただきたい。村上顧問より)

 

羅課長より回答

 国際交流を重視して学生の留学や送り出し、受け入れに取り組んでいる。台湾は、学費が日本の大学より安い。台湾に162校の大学があり、台湾でも 小子高齢化が進んでいて、地方の大学が学生募集に苦戦している。奨学金の情報もホームページに載っている。中国語ができないときに申請できる奨学金もある。東京の 台北駐日経済文化代表処 で一括して申請受付している。台湾は9月1日から新学期。学生は2月ごろから大学と奨学金を探しはじめる。

 

 日本と台湾で姉妹校の大学では、互いに学生を派遣している。期間は1ヶ月から6ヶ月。自分が入った大学に収めた学費からまかなわれ、追加支払いは不要。交換留学中に取得した単位も認められる。もし留学したければ歓迎します。事務所に電話で聞いてくれれば説明します。

  

 


スタッフ報告

 

「スクーターの旅 in 澎湖島」 

 

ふぉるもさライダー

澎湖跨海大橋

西台餌砲

台湾牛


 

 今年2月にはじめて澎湖島を訪ねた。今回の旅の目的は、私の愛車である台湾製スクーター・光陽機車のショールーム(高雄)を訪ねることと、澎湖島をレンタルバイクで走り回ることの二つ。

 

 高雄MRTから高雄LRT(軽軌)に乗換え、夢時代駅で降りたショッピングモールにショールームがある。光陽機車は台湾最大のバイクメーカー。英語名 「Kwang Yang Motor CO.」から KYMCO のブランド名を持つ。(冷蔵庫脱臭剤の Kimco とは綴りが違う。)

 

 以前、スクーターのパーツ類は台北で入手済みなので、今回はマグカップやセロテープカッター・砂時計など KYMCO のロゴ入りグッズをお土産に購入。

 

 澎湖の馬公空港までは高雄空港から朝の立栄航空のプロペラ機に搭乗。ヘルメットを持参したせいで重量制限をわずかに超え、往復とも超過料金を支払った。

 

 澎湖では、長春大飯店に投宿。予約時にレンタルスクーターをリクエストしたところ、台湾山葉の125ccが用意されていた。レンタル料は48時間で 800NTD

 

 到着した日の午前中は、現地ガイドの Love Penghu 宮坂大智さん (台湾国内認定ガイド)に案内いただいて馬公市内を散策した。午後から、蛇頭山にある日軍松島艦沈船記念碑を目指してスクーターを走らせた。ちょうど110年前の19081月、練習航海を終えて馬公に立ち寄った旧日本海軍の軍艦松島が爆沈。犠牲者の慰霊碑は、かつて市内にあった記念公園から、戦後、現在の場所に移設された。(初日の走行は約40km

 

 翌日は、澎湖跨海大橋を渡り、西嶼西台(明代末期からの大きな砲台遺跡)、西台餌砲(旧日本軍が米軍を騙す目的で造ったコンクリート製のニセ大砲)を訪ねた。

 

 澎湖では、冬の間、強い季節風が吹く。このため、石積みの壁を築き、これを風よけにして農作物を栽培する「菜宅」が島のあちこちで見られる。今回、この菜宅を見て回る中で、台湾牛にも出会えた。(2日目の走行は約90km

 

 日本人が台湾でスクーターを借りるのは難しい場合が多い(注) が、離島の澎湖なら簡単。スクーターを使えると、道路が広く交通量も少ない島内の移動にとても重宝する。

 

 今回は、シーズンオフのため、残念ながら風との戦いを強いられる寒い旅となったが、かぼちゃ入りビーフン(絶品!)など、美味しい食べ物に出会うことができた。

  次の機会には春から秋に再訪し、「台湾のハワイ」と称される景色や夜のイカ釣り体験をぜひ楽しんでみたい。

 

 (注)  レンタルバイクを借りにくい理由については、当サイト内の 台湾訪問記  をどうぞ。