20210801 第64回集いを開催致します!

あの激動の時代、自由とは何だったのか・・・


 みなさま、ご無沙汰しております。コロナが発生してから定期的に開催しておりました集いも一時停止せざるを得なくなりましたが、長い中断を経て、ようやく皆様に再び台湾の知らせを届けられる事となりました。大変長らくお待たせ致しました。

 

 今回は芸術の視点からの台湾へのアプローチです。

 

 塩月桃甫 という名前を聞いた事が御座いますでしょうか。日本統治時代、台湾に渡った教師の一人です。彼は台湾の芸術界の発展に大きな貢献を致しました。しかし、日本ではあまり知られていません。今回、そんな塩月の存在に着目し、人生を掘り起こし、映像に纏められた小松監督のドキュメンタリー映画 『塩月桃甫』を上映致します。

 

 小松監督の映像を通じ、また違った視点からの台湾へのアプローチをお楽しみ下さい。



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 小松孝英監督のプロフィール 

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脚本・監督を担当された小松孝英(こまつたかひで)さんは1979年生まれ。宮崎県延岡市出身のアーティスト。九州デザイナー学院卒。20代の頃よりロンドンやニューヨーク、香港など世界10ヵ国で個展開催やアートフェアに出品している。国連施設や延岡市、アジア企業などにコレクション多数。国文祭・芸文祭みやざき日南市総合プロデューサー。延岡市観光大使。



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 【映画『塩月桃甫』について】 

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 2019年に撮影が開始されたドキュメンタリー映画『塩月桃甫』(監督:小松孝英)が、2年の歳月を経て完成。塩月桃甫がどんな人物だったのか、一般財団法人台湾協会理事森美根子さんが『台湾協会報』(5月号)に投稿された記事を転載します。 

 

 【台湾で活躍した塩月桃甫】 

 映画の主人公、塩月桃甫は、明治19年宮崎県児湯郡三財村(現西都市三財)に生まれ、大正元年に東京美術学校を卒業し、図画教師として大阪浪華小学校、その後は愛媛県師範学校に赴任する。 

大正5年、当時、最も権威ある文部省美術展覧会(文展)に初入選し、松山で一躍、時の人となった塩月は、地元の文人墨客たとえば近代俳句の巨匠・高浜虚子や愛媛の日本画界の主導者・長谷川竹友らと交わり、高浜虚子との『伊予の湯』(愛媛道後、大正8年4月)には竹下夢二風の装幀・挿画を描き、また南画風の水墨画を数多く手がけるなど、東洋芸術の観点から油絵を見つめなおす得難い経験を積んでいる。 

 

 そんな彼が台北一中の図画教師として台湾に渡ったのは大正10年、35歳。一説によると、その背景には子供の教育費を捻出するためという現実的な理由(台湾では内地人は6割加俸)があったと言われているが、タヒチに向かったゴーギャンと同様に、南国に強い憧れを抱いていた塩月は意気揚々として台湾に向かい、その3か月後には早くも、すでに赴任していた美校の先輩、郷原古統とともに東台湾の太魯閣の原住民探訪に出かけている。 

 

 台北一中と兼務して台北高校でも図画を教えるようになった塩月はその後、台湾美術展覧会(官展)の西洋画部の審査員を16年間務め、原住民をモチーフにした秀作の数々を官展に発表した。前衛的な作風をとおして常に台湾美術界を牽引した彼は、当時の日本洋画壇の急先鋒、独立美術協会の台北巡回展を3度も成功させ、さらには各種美術団体の創設を後押しするなど、25年間、台湾美術の発展に努め主導者として活躍した。 

 

 しかし日本の敗戦で彼の運命は一変する。台湾時代の作品のほとんどを失うという、老境の身となった画家にとって致命的な打撃を受けたのみか、宮崎に引き揚げたのちは貧窮に喘ぐなか、我が子赳を病で喪い、さらには引揚げ後に制作した作品20余点も火災で焼失してしまう。度重なる不運に見舞われるも、その後の塩月は再起をかけ、日向女子自由学園、宮崎大学などで絵を教え、美術教育に情熱を注いだほか、県展の審査員を独立美術の重鎮・海老原喜之助と務めるなど、芸術家としての堂々たる力量を見せている。だが、宮崎の芸術文化の主導者として、これからという矢先の1954年に心臓病にて他界する、享年67。 

 

【独自の手法で哀歓を描く】 

 映画はこうした塩月の一生を丁寧に辿っている。冒頭の、走りゆく船の甲板から映し出された広々とした海原、いく筋も現れては消える波しぶきは激動の時代を駆け抜けた塩月の運命を予感させるようだ。監督の小松孝英氏は、国際的に活躍する宮崎出身の美術家で、映画はその小松氏が地元の骨董屋で偶然に原住民の少女を描いた塩月の絵を見つけたところから始まり、戦前の台湾で壮年期を過ごした画家・塩月桃甫にとっての自由とは何だったのか、日台の取材をとおして、その問いについて向きあう姿が描かれている。 

 

 今回、生涯を辿るうえで台北一中(現建国中学)、台北高校(現国立台湾師範大学)、教育会館(現二二八紀念館)、台北や烏来の原住民博物館が被写体として登場しているが、小松氏の一貫した突撃取材により現地の人々の生の声を余すところなく伝えていて、どの場面も瑞々しい仕上がりになっている。特に、百年前に台湾に渡った塩月の業績について時代や民族の壁を超えて分析し熱く語る、台湾の美術研究者たちの真摯な姿勢には胸を打たれた。 

 

 一方、戦後編で登場する塩月の教え子や孫の光夫氏そして宮崎県立美術館の学芸員らはみな一級の文化人で、儒学者の安井息軒や外交官の小村寿太郎を輩出した宮崎の歴史の奥深さを垣間見たような気がした。また今回、1975年に台湾美術界に起こった塩月批判にも初めてスポットを当て、批判した当事者である謝里法氏にもカメラを向けて取材を敢行している。 

そして映画はクライマックスを迎える。孫の光夫氏は祖父・桃甫の一生をどのように見つめ、戦後の台湾に起こった塩月批判をどう見ていたのか、その真相は映画を見ていただくことにしよう。なお本編では台湾の山々や街のようすが監督の美術家ならではの視点で美しく映し出されているので、コロナ禍で台湾ロスに陥っている方には見逃せない一作になっている。ナレーションは女優の山本陽子さんが担当し、シンガー・ソングライターの小松梨奈さんが(監督の妻)が、全編を通して塩月の愛と悲しみを切々と歌い上げている。