対談会で民主化に対する思いを語り合った李登輝(左)と彭明敏(2001年10月14日、台北市で)
写真提供:近藤伸二氏
巨星、墜つるも闘志は消えず!
第65回の集いを開催しました!
今回は、去る2022年4月8日に98歳で逝去されました彭明敏博士(元台灣大学教授、総統府資政)について、彭氏へのインタビューを元に、昨年『彭明敏〜蒋介石と闘った台灣人〜』を出版されたジャーナリスト、近藤伸二先生に、台灣の民主化と建国に命を捧げた彭明敏博士の波瀾万丈の生涯を語って頂きました。
波瀾万丈の彭明敏先生の生き様、近藤先生の語り口からとくとご覧下さい!
・・・・・・・・・・・・・・・・
近藤伸二先生のプロフィール
・・・・・・・・・・・・・・・・
ジャーナリスト。著書に『彭明敏 蒋介石と闘った台灣人』『米中台 現代三国志』『アジア実力派企業のカリスマ創業者』等多数。79年毎日新聞入社、香港支局長、台北支局長などを歴任。2014年追手門大学教授、22年3月に退職し、ジャーナリストとして活動。
日本と台湾を考える集い 第65回
「彭明敏 ~蒋介石と闘った台湾人~」
講師:元毎日新聞台北支局長・ジャーナリスト 近藤伸二 氏
はじめに
昨年5月に『彭明敏 蒋介石と闘った台湾人』の本を出した。ご本人は長生きして今年4月8日に98歳で亡くなられた。3~4年間かけた取材で得たことも含めて、今日は紹介したい。
日本では李登輝元総統のことは良く知られている。しかし、彭明敏さんの名前は「聞いたことがある」程度の人が多い。2020年にチェコの議長が訪台した。チェコは民主化に関連して台湾と関係が深い。その際に、頼清徳副総統が2冊の本を手渡した。1冊は李登輝さんの『台湾の主張』、もう一冊は彭明敏さんが海外脱出して最初に書いた本『A taste of freedom』。この2冊が台湾の民主化を理解するのに役立つので、読んでください、との趣旨だった。李登輝さんと彭明敏さんは知名度に大きく差があるが、台湾の民主化に貢献した二人だということをまずは知ってほしい。
彭明敏さんはアメリカに20年以上いたこともあり、アメリカでの知名度は高い。没後、ニューヨーク・タイムズは彼がいかに民主化に貢献したかを詳細に報じた。
1.彭明敏さんの経歴
彼は、1996年の台湾ではじめての総統直接選挙の際に、野党・民進党の総統候補として出馬し、副総統候補の謝長廷氏(現台湾大使)とコンビを組んだ。
1923年8月台中生まれ。(李登輝さんは同じ年の1月生まれ。)一族はもともと高雄の出だが、父親が台中で診療所をしていた。
小学校の時、父が日本で研修を受けたため、東京の小学校に1年通った。関西学院の中等部にも1年いた。その後、京都の三高から東大の法学部に進学。ただし、入学はしたものの戦争の激化でゆっくり授業を受けられる状況にはなかった(京大にいた李登輝さんも同様の状況だった)。
終戦の年の4月、長崎の郊外にあった兄の診療所を訪ねていく時に船上で米機の機銃掃射に遭い、気がつくと左腕がちぎれそうになっていた。切断手術を受け、それ以来左腕がない。当時、志願(実は強制されて)で学徒出陣するケースが多かったが、彭明敏さんは頑として志願はしなかった。兄の家で静養中に、長崎の原爆投下のキノコ雲を目撃している。
戦後、日本の帝国大学に在籍していた学生は、台湾大学に入れ、法学部に編入した。(李登輝さんは農学部に編入)ここで初めて李登輝さんと知り合い、友人になる。
法学部卒業後は研究者生活を始める。専門は航空法。カナダのマックギル大学で修士号を取り、その後フランスに留学して博士号を取った。当時、宇宙空間の法的論理で論文を書くような研究者は他におらず、有名になった。戦時の空爆に関して法的に検証した論文も書いているが、それは長崎で機銃掃射されて左腕を失ったことが関心の原点にあった、と後に本人が言っている。
フランス語で多くの論文を書き、世界的に名前が知られた。1957年、34歳の時に台湾大学で最年少の教授になり、1961年には政治学科主任になった。当時、国連の中華民国代表団の顧問として、ニューヨークでの国連総会に参加した。数十名の代表団のうちの最年少で、しかも本省人は彼ともうひとりの2人のみだった。いかに本省人の中での知識人、選ばれたトップランナーだったかがわかる。
そうした活躍ぶりを聞いて、1962年に蒋介石と総統府にて1対1で面会することになる。これは、将来を約束されているのも同然のこと。(この頃の李登輝さんは農学研究者。蒋経国から抜擢されて農業担当の政務委員になるのはこれより10年ほど後のこと)
蒋介石との面会は10分ほどで終わった。その後国民党の高官が自宅に来て、国民党に入れば、高いポストを約束することをほのめかした。しかし、彼は国民党に入党するどころか、逆に、国民党の一党独裁体制や蒋介石のことをコテンパンに批判する文章を作って印刷し、1964年に逮捕される。この「自救宣言事件」については、後で紹介する。
懲役8年の判決を受けて、特赦で出所。その後は自宅軟禁状態で、自宅から外出はできるが必ず尾行が付き、電話も盗聴される状態に置かれた。
そして、5年後に、極秘裏にスウェーデンに出国する。その後アメリカに移り、台湾の建国独立運動に打ち込む。アメリカが台湾関係法を作る際にも支援した。台湾の民主化後、1992年に22年振りに台湾に帰国。民進党に入党し、公認候補として総統選に出馬。国民党の李登輝さんと対することになる。
かつての友人・李登輝さんと政治的にはライバルとなる。2000年に国民党から初めて政権を奪取した陳水扁・民進党政権の総統府資政(最上級顧問)に就任。2020年、李登輝さん死去の時には、告別式の葬儀委員に選ばれている。今年4月に98歳で亡くなった。これが経歴。
激流のような人生を歩んだ人。ポイントとしては、「自救宣言」「海外脱出」「台湾に戻っての総統選挙」、これが彭明敏さんの歴史に刻まれているところだ。
2.自救宣言作成と逮捕・判決・特赦
1964年9月。台湾大学の教授時代。教え子の謝聡敏、魏廷朝と『台湾人民自救運動宣言』(自救宣言)を印刷し、反乱罪容疑で逮捕された。特務警備総司令部は本件を秘密裏に扱い逮捕を公表しなかったが、アメリカのメディアが嗅ぎつけて、1か月ほどして明らかになった。裁判の結果、起草した謝聡敏が10年、彭明敏さんと魏廷朝は8年の刑を宣告された。彭明敏さんは後に特赦で釈放され自宅に戻ったが、24時間監視が付き事実上の軟禁状態だった。
自救宣言には、「一中一台論」が示され、今の人なら「当たり前」との感想を持つ内容だが、蒋介石が「自分たちこそ中国の正統政府である」「大陸は今共産党が不法に占拠しているがいずれ自分達が取り返す」と言っていた当時、それに刃向かうことは誰もできなかった。
また、自救宣言の中で、蒋介石の言う「大陸反攻」は絶対に不可能であることを、研究者の立場から分析して書いていた。そして、大陸反攻のスローガンが、長く続いた戒厳令の口実として利用されていること、さらに、国民党政権は、中国大陸の人民を代表しているわけでも、台湾人民を代表しているわけでもないことを理詰めで示していた。この時代に、このような内容を印刷して各層の知識人に配ろうとしたことがポイントだと言える。
さらに、このようなことも書いていた。
「中国」を背負う限り、広大な国土と長い歴史を背負う大国の代表ということになるが、そうではなくて台湾は、大国の幻想を捨てて、民主的で繁栄した社会を築くべきだ、と。
また、省籍の隔てなく協力して新しい国家を建設し、新憲法を制定して新たに国連加盟をめざす。
国民党に刃向かうというとどうしても外省人を敵に回すイメージがあるが、そういう主張ではなく、外省人とも協力して新しい国家をつくることを考えていた。そして、国家元首は直接選挙で選び、野党結成も認める。この二つは既に実現したが、新憲法の制定や新たに国連に加盟することはまだ課題として残っているテーマ。これが1960年代に書かれたことを考えると、まさに民主化のロードマップがみごとに盛り込まれている感じを受ける。
彭明敏さん達は、この自救宣言を1万部印刷した。これを教育界やビジネス界などの各界、社会のリーダー達に郵送しようとした。堂々と印刷すれば逮捕されるので、スネに傷を持つ印刷業者なら、密告されずに済むと考えて、ポルノ小説を印刷しているような業者を見つけてきた。印刷できて安宿で休憩していたところに警察が来て捕まってしまった。
実は、最初に印刷を引き受けた業者が、直前になって突然止めると言い出した。しばらくして、見つけた業者が引き受けたわけだが、両方の業者とも密告していた。
当時の台湾は密告社会で、知っていたのに密告しないと、それが犯罪になる。一方で密告の結果没収された資産の3割が、密告者の懐に入るような法律があった。彭明敏さんも教え子二人も、優秀な研究者だったが、こういう実世界にはちょっと疎いところがあった。彭明敏さん自身、ここまで密告体制が凄いとは思わなかったと後で回想している。
日本統治時代に西本願寺の地下納骨堂があったところが、警備総司令部の取調室・拷問室になっていた。現在は公園。
彭明敏さんは若くして有名な研究者であり、左腕が無いこともあり、直接的な身体的拷問はなかった。教え子二人は、殴られたり電気ショックを受けたりした。夜も眠らせずに同じ質問を何度もくり返し、気が狂いそうになる拷問だったという。
後で紹介する脱出劇は奇跡のようなことだが、この獄にいるときにも、彭明敏さんあてにアムネスティ・インターナショナル・スウェーデン支部からの葉書が届くといったことがあった。短く「I hope you are well.(あなたが元気でいることを祈っています)」と書かれていた。あとで分かったことだが、誰かがアムネスティに通報し、アムネスティ側は、チームを作って彭明敏さんや台湾政府あてに何通も手紙や葉書を送っていた。当時は戒厳令下にあって、検閲もされており、ましてや獄中にそれが届くことは考えられない。なのに、この一通だけがなぜか届いた。監獄側で何か手違いがあったのだろう。そこに差出人の住所が書かれていることもあり、後の奇跡的な海外脱出につながっていく。
蒋介石は、わざわざ単独で面会して、目を掛けて、あわよくば将来リーダーにしようと思っていた人物が、自分に対する批判を書いたことに当然激怒した。ただ、彭明敏さんは、法学者として海外でかなり知名度が高く、彼の逮捕は1か月ほど伏せられていて、これをニューヨーク・タイムズの特派員が嗅ぎつけた。それで、警備総司令部も否定しきれなくなって、3名を反乱罪で逮捕したことを渋々発表した。ところが、欧米の基準で言えば、文章を書いただけであり、犯罪にはあたらない。言論の自由の範囲内だとして、釈放要求が高まった。各国にある中華民国の大使館に抗議活動がとられるようになった。当時、蒋介石政権は、軍事的にも経済的にもアメリカの後ろ盾がないとやっていけない状況にあり、アメリカのこうした反応は無視できず、彭明敏さんをどう処遇するかは、頭の痛い問題だった。
状況によっては処刑することも可能だったが、逆に受難の英雄にしてしまうと面倒なことになる。それで再教育して転向させ利用しようと方針を決めた。会議に呼び出して思想転向させようとしたが、本人は一切応じなかった。
1965年、事件の翌年に裁判が行われ、謝聡敏、彭明敏さんと魏廷朝は3人とも有罪判決を受けた。上告したものの、11月に上告棄却で刑が確定、同時に総統の特赦令で彭明敏さんは懲役8年確定と同時に釈放されて家に帰り、これは、蒋介石総統の寛大な恩義であるとPRされた。謝聡敏と魏廷朝は減刑され、彭明敏さんだけが特赦で帰宅を許された。
判決文(申請すれば閲覧もデータ入手も可能)によると、自救宣言の文章を書いたこと自体が反乱罪に当たるということだった。それなら、普通はどの箇所が法律違反に当たるのか克明に検証するはずだが、当時、国民党からすると内容が外に漏れて議論になると困る事情があった。そもそも彭明敏さんらは議論を起こすことが狙いだったわけなので。判決文では、自救宣言の内容にはほとんど触れず、書いた動機を紹介した後に、突然、反乱罪容疑と示すような様式だった。
3.事実上の自宅軟禁措置
特赦後、監視が付き、電話は盗聴され、外出時には尾行もされた。自宅前には24時間3交代で監視が付き、タクシーで出かけると、特務が車で後を付けた。ホテルやレストランで食事をすると、隣のテーブルに特務の監視員がやってきて、耳をそばだてたりテープレコーダーを置いたりした。
家族も尾行・嫌がらせを受けた。奥さんは買い物の後、何を買ったか調べられたし、子供も学校で調べられた。本人の最大の希望は復職して台湾大学で教壇に立つことだったが、国民党からすれば、間違った思想を学生に広められると困るわけで、希望が叶うことはなかった。
監視は、最初、警備総司令部という軍の特務機関が行っていた。途中から司法行政部の調査局という特務機関に変わった。彭明敏さんは後に「警備総司令部には、文人を尊重する気風があったが、司法行政部は、虎(蒋介石)の威を借りた狐のようだった」と嫌悪感を示した。
彼らは罠をしかけることをした。しばらくして知り合いも訪ねてくるようになった頃、陳光英という人物が紹介されて訪ねてきた。彼は、ビジネスで日本に行くことになり、戻って来た後で、「東京で台湾独立運動をしている史明と会った。彼らから渡してくれと頼まれた」と、独立運動の本と現金20万円を差し出した。彭明敏さんは現金は受け取らなかった。しばらくしてまた訪ねてきて、「また日本に行く。紹介状を書いてほしい。」としつこく頼まれ、日本語で「真面目な青年ですので、なにとぞよろしく」と一筆だけ書いて渡した。
実は陳光英は調査局のスパイ。後日、調査局から食事の誘いがあり、最初は和やかな雰囲気を装っていたが、調査局の職員が「聞きたいことがあります。」と切り出した。「あなたは日本の独立運動家と連絡を取っていますね。」と言われ、否定すると、例の紹介状を取り出して、「これはあなたが書いたものではないのか?」と追及してきた。
「これは私が書いたものだが、単なる紹介状で、独立運動家と連絡を取っていたわけではない。」とやりとりしているうちに、向こうが「お前なんか、いつでも消すことができるんだぞ。」と言い放ち脅した。(当時、特務が目を付けると、実際に交通事故を装った不審な死に方をするようなことは結構あった。例えば陳水扁の奥さんは、不審な軽トラックにはねられて下半身不随になり、車椅子生活を強いられてきた。台湾独立建国連盟の事務局長も追突事故で亡くなっている。)これは、単なる脅しではなく、その気になれば始末できるんだという脅しだった。
調査局員と激論になったこともあって、彭明敏さんは、いつ再逮捕されるかもわからないと考えるようになった。相手は証拠となる手紙を物証として持っているわけで、彼は、状況を中国語と英語で書いたものを用意し、再逮捕されたら公表してもらえるように知人に預けたりした。
監視も厳しさを増してきて、以前はこっそりと尾行する感じだったのが、露骨に取り囲まれるようになった。特務の内情に通じた友人が、再逮捕どころか、事故に見せかけて抹殺される危険性がかなり迫っていると極秘で教えてくれた。そのような状況の中で、失敗すればもちろん殺されるが、海外への脱出をやってみることになった。
4.命懸けの海外脱出計画
3つのグループが、彭明敏さんの脱出を支援することになった。1つは、アムネスティのスウェーデンのメンバー。亡命の受入れやスウェーデン政府への働きかけも含めてやってくれた。2つめは、アメリカ人で、当時台湾で布教活動をしていた牧師グループ。台湾にいるメンバーなので、かなり直接的に支援してくれた。そして、もうひとつが、日本の台湾青年独立連盟のメンバーや友人たちだった。
今回のように機密事項を扱う際の鉄則として、3つのグループ間では連絡が全くなく、彭明敏さんがそれぞれと連絡を取った。
彭明敏さんは、亡命後すぐに回顧録を出したが、それにはどうやって海外脱出したかに全く触れていない。1970年の脱出後、39年後の2009年になって、『逃亡』という内幕を書いた本を出している。宗像隆幸さんが1996年に書いた本の一章を彭明敏さんの脱出にあてている。アメリカ人牧師タンベリーさんも2011年になって脱出の内幕に触れた回顧録を書いた。このように長い時間が経ってから本になったのは、直後ではいろんな人に迷惑がかかるため、情報を明らかにできなかったことによる。こうした回顧録があったからこそ、私も本が書けたわけだが、それぞれは、他の関係者がどう動いたのかは分かっていないので、いろんな記述を突き合わせて、いろんな証言を取って、ようやく全体像が見える形になった。
1968年、彭明敏さんの自宅軟禁がはじまってから2年半後くらいに、当時共同通信の記者だった横堀さんという方が、たまたま監視の目にかからずに、彭明敏さんの家に入って会った。
台湾青年独立連盟の宗像さんから、別の事件で台湾に強制送還され高雄にいる柳文卿という人に会うよう頼まれたのがきっかけ。柳さんを原告にした裁判を起こすので、本音を聞いてきてほしいとのことで訪台し、その後、頼まれていない彭明敏さんとも会った。横堀さんは、お父さんが商社マンで小学校のころ台北に住んだことがあった。共同通信に勤めてからもアジアの独立運動に関心があり、取材をしていた。当時動きがあった台湾共和国建国の話に関連して、どんな人が大統領にふさわしいのかを聞くと、多くの人から彭明敏さんの名前が挙がった。そんな人物がいるなら会ってみようというジャーナリストとしての行動だったと思う。これがきっかけになって、宗像さんと彭明敏さんが手紙をやりとりするようになる。もちろんチェックされているので、台湾と香港を行き来している牧師に頼んで香港から宗像さんに投函してもらい、宗像さんから牧師あてに届いた手紙を仲介してもらうような、実に面倒な方法を用いた。彭明敏さんは、自分の独自ルートで入手した、今度誰が政治犯として逮捕されたという情報を宗像さんに送り、それを宗像さんが機関誌「台湾青年」に投稿したり、アメリカに情報提供してメディアで紹介されるようなことをしたりしていた。
そのうち、香港の私書箱を介してやりとりできるようになり、アメリカ人牧師が協力した。
命の危機がひたひたと迫ってきていた。横堀さんと彭明敏さんは共通点があって、キッシンジャーがハーバード大学で教授をしていた頃に、世界の有望な若手を集めて国際問題研究セミナーというシンポジウムを開催していた。そこに彭明敏さんも横堀さんも呼ばれたことがあった。ミシガン大学から彭明敏さんに教授の招聘状があり、キッシンジャーが国民党に口利きしてくれればと期待して、なんとか出国に手を貸してもらえないか相談したが、うまくいかなかった。今にして思えば、当時のキッシンジャーは中国と国交正常化する戦略をたてていたので、相手にしなかったわけだ。
彭明敏さんには、3交代24時間の監視が当初付いていたが、監視する方も人間なので早朝や深夜の時間帯には監視員がいなくなることがあった。彭明敏さんは祖父の代から長老教会と関わりがあり、知り合いが多く、タンベリーさんという陽明山に住んでいる牧師を深夜に訪問して未明に帰ってくるということを週1回ぐらい繰り返した。そして、海外脱出というプランが浮上し、宗像さんや横堀さんに協力を要請して、だんだん計画が具体化してきた。
タンベリー牧師はメソジスト教会から派遣された人で、この件以外でも政治犯の家族にアメリカで募金したドルを渡すという活動をしていた。一般的に派遣先で政治活動することは禁じられていて、これは、もし強制送還でもされると次から牧師の派遣を受け入れてもらえなくなるからだったが、彼は、「見て見ぬふりをすれば、国民党政権の人権侵害を容認したことになる」という信念で政治犯の支援活動を続けた。
また、彼は海外脱出計画を支援したが、現地の台湾人を巻き込まないことを信念としていた。これは、自分も含めて外国人なら、仮に見つかっても国外退去処分で済むが、台湾人が企てに加わって逮捕された場合には、処刑や長期の服役が免れないことが目に見えていたから。実際にタンベリー牧師はこの件とは別の理由で1971年に強制退去処分を受けている。
密かに連絡をとっていたアムネスティからは、1969年の5月になって、スウェーデン政府が亡命を受け入れるとの回答があった。島国の台湾から出るには飛行機か船しかなく、最初は船を考えたが、各港に特務の目が光っていて、漁船をチャーターした場合でもいきなりヨーロッパには行けないため危険という結論になった。
それで、飛行機による脱出を考えた。欧米人とは風貌が違うので、日本人のパスポート所持者になりすます方法を検討。宗像さんは、日本人のパスポートの写真の張り替えと刻印の偽造を担当した。たまたま宗像さんの高校時代の親友で阿部さんという人が、3年ほど働いていた南米から帰国してきた。会って頼んだ結果、実行役を引き受けてくれることになった。
彭明敏さんから宗像さんには、パスポート貼り替え用の変装写真が何度か届いたが、すぐにバレるようなレベルのものが多く、そのうち頭がボサボサでヒゲも生やした写真が来て、当時ヒッピーが流行っていたこともあって、この写真を使おう、ということに落ち着いた。
当時のパスポートは写真と台紙の上にまたがって「外務省」の割り印を押すようになっていた。写真を剥がして貼り替える変装写真に押す割印を偽造するのが宗像さんの役割だった。
彭明敏さんには左腕がないので、夏は目立ち過ぎる。冬ならコートを着るし、台湾も1月には寒いので1月に決行することが決まった。
この賭けは、生きるか死ぬか五分五分だと彭明敏さんは言っていた。半分は失敗することを覚悟して、失敗したときの声明文も用意した。国民党政権が自白の内容だとして公表する情報は、拷問や薬物を使って強制されたものであって自分の意思ではないことを宣言した声明を日米の知人宛てに送った。
また、手紙だけでは間に合わないので、緊急時の暗号を決めて、電報でやりとりすることにした。例えば、急に阿部さんが行けなくなったときは、「John hospitalized.」阿部さんがもし捕まったときは「Merry ill.」。
さらに、これが極秘の計画だったため、もし彭明敏さんが見つかって連行されたり射殺されたりした場合、一切公表されないことから、タンベリー牧師の友人のバーネットさんが日本からやってきて、香港まで彭明敏さんが出国に使う同じ便に乗り合わせ、目撃役を担うことにした。
5.Xデ-
脱出計画のことを家族には言えない。知っていながら通報しなかったとなれば家族も犯罪者になるからだ。1月1日、子供の背の高さを測った。子供とは最後の別れになるかもしれないが、口にはできない、そんな中でとっさに思い付いてしたことなのだろう。
翌1月2日の早朝、当時は今の桃園空港はまだなく、松山空港近くの牧師宅に身を寄せた。午後3時に阿部さんと繁華街で落ち合い、阿部さん名義のパスポート/航空券や割印を押した写真を受け取った。タンベリーさん夫妻が牧師宅に来て写真の貼り替え作業をした。自宅で最後と思ったが、どうしても家族ともう一度会いたくなり、お兄さんに頼んで連れてきてもらい路上で会った。言わなかったが長女は何かわかったようで、泣いていた。
冷静で緻密な彭明敏さんも、翌1月3日、牧師仲間との別れの際に、さすがに台湾最後の夜で、明日は生きるか死ぬかわからず、号泣している。
その後、カツラをかぶり変装して松山空港に向かった彭明敏さんは、写真を貼り替えたパスポートで無事に出国手続きを終えた。ところが、駐機場で飛行機へのタラップを上がろうとしたところで空港職員に呼び止められ、搭乗口まで戻される。特務がどこに目を光らせているかわからず、「これはもうバレた」と思った。
実はこれは、航空券に荷物の検査済みの印が押されていなかったためで、そのスタンプを押して飛行機に戻った。ようやく飛行機は動き出したが、今度は滑走路に向かう途中で突然止まった。
「今度こそ見つかった」と覚悟を決めたといい、その時の話しを聞かせてくれたとき、彭明敏さんは凄い形相をしていた。やがて機内放送で「機器に故障があるので今から点検する」と案内があり、30分ほどして離陸した。
香港では牧師仲間に出迎えられ、飛行機を乗り換えてタイのバンコクに向かった。それを見届けて、牧師が「メリーは安産で双子を出産した」の暗号文を打電。これが、彭明敏さんと見張り役のバーネットさんが二人とも無事に香港に着いたことを知らせるものだった。
バンコクで今度はデンマーク・コペンハーゲン行きの便に乗り換え、アフガニスタン上空に差しかかって、「なんとかこれで逃げ切れた。自由人になった。」と実感した、と言っていた。
1月4日の午後6時40分に最終経由地コペンハーゲンに到着。予定では宗像さんと香港の牧師あてに、作戦に成功したら「success」という電文を香港から打つことになっていたが、香港もバンコクも国民党の特務がチェックしているかもしれず危ない、という判断で、ようやくコペンハーゲンから電報を打った。
1月5日0時半。ストックホルムに着くと、この冬一番の寒い日で気温はマイナス25度だった。暖かい台湾から来るからということで迎えの人が帽子など防寒具を用意していてくれた。パスポートは機内のトイレで引きちぎって流した。スウェーデン政府から空港職員に、「彭明敏さんという人物がパスポート無しで入国するので通せ」との通達が回っており、証拠を残さないようにしたわけだ。
日本時間1月5日の朝に、宗像さんに「success」の電報が届いた。香港から打電されれば、4日中には着いていないとおかしいので、なかなか電報が来ないことをずっと気にしていた。ただ、失敗したなら別ルートでその旨が暗号で入ってくるはずなので、待つしかない状態だった。ようやく届いて、成功を確認できた。
6.衝撃と余波
阿部さんは彭明敏さんに自分のパスポートを渡したあと、台北で紛失届を出し、日本大使館に行ってパスポートの再交付を受けた。1月14日、台湾を出国してフィリピンに向かい、1月17日に東京に戻った。阿部さんも帰国したことの確認をもって、1月23日に、日本をはじめ各国の台湾独立運動団体が彭明敏さんの脱出を発表した。同時に台湾独立連盟を作り、独立運動の弾みにもした。
最初は、亡命は受け入れられたものの正式な手続きがまだだったので、少し時間はかかったが、スウェーデン政府は2月1日に正式に亡命受入を発表した。
これは、国民党にとっては腰を抜かすような出来事。自宅軟禁で24時間監視していた人物がある日突然スウェーデンに脱出したということで、大騒ぎになった。こんなことは米軍かCIAが関わっていないとできないと考え、当時台中にあった米軍基地に彭明敏さんが出入りしていないか徹底的な調査が行われた。また、船を使ったかもしれないため、漁船がしらみつぶしに調べられた。客船と漁船といかだまで、全部で1万1,813艘がチェックされた。
彭明敏さんを監視していた特務は、記録上は夜中も監視していたはずで、脱出後もしばらくはそのことがわからないから2週間ほどは交通費や架空の食事代を請求していた。それがバレて、幹部が逮捕されたりクビになったりした。
ここまでを整理すると、自救宣言は今から50年以上も前に、台湾の進むべき方向性を提示し、一部は実現したが一部はまだ台湾の課題として残っている。
また、宣言の内容が、海外での独立運動の理論的支柱になったり弾みをつけたりしたということ。
そして、鉄壁の国民党の特務を出し抜いたことで、国民党の権威が失墜し、民主化運動に刺激を与えて、このあといろいろな動きが出てくる。直接の影響はないにせよ、この時期、ニューヨークで蒋経国の狙撃事件も起きている。
7.米国滞在中と帰国後の活動
スウェーデンのあと、彭明敏さんはアメリカに渡る。アメリカ政府からは政治活動はするなと言われていて動きにくかったが、ミシガン大学教授として研究活動をする傍らで、台湾の民主化・独立運動に励んだ。特に、エドワード・ケネディ上院議員や、当時カリフォルニア州知事だったロナルド・レーガンと交流があった。例えば1979年にアメリカと台湾が断交した時に「台湾関係法」をアメリカが作っている。
先日の記者会見でバイデン大統領が「中国が台湾に武力侵攻したときに、アメリカが軍事介入するのか」と聞かれて「イエス」と答えて話題になったが、その根拠になっているのがこの法律だ。国内法だが、台湾に対して防御性の武器を供与する際にもこの法律が根拠になっている。彭明敏さんだけに限らず当時アメリカにいた台湾人がこの法律の成立に協力した。彭明敏さんも、公聴会で2回証言している。台湾の民主化を議員に働きかけることによって、アメリカが国民党にプレッシャーをかけることにつながる。当時の台湾はアメリカの後ろ盾がないとやっていけない中で、アメリカの圧力は非常に大きかった。これが、李登輝さんが総統として台湾の中で民主化を進めていくにあたって、外堀を埋めるような力になった。
台湾では1988年に蒋経国総統が亡くなった。その後、李登輝さんが副総統から昇格して本省人初の総統になり民主化を進めるのは皆さんご承知のとおり。
1991年に、海外に亡命している彭明敏さんに対して出されていた指名手配が解除され、帰国を認めない人のブラックリストもなくなった。1992年、実に22年振りに彭明敏さんは台湾に帰ってくる。空港には2千人が出迎えた。1996年の台湾総統の初の直接選挙では、国民党から現職の李登輝さんが出馬し、そして民進党からは帰国後4年しか経っていない彭明敏さんが公認候補になった。
この時、中国がミサイル演習を行って威嚇し、これに対してアメリカが空母を派遣して軍事演習を終わらせたことがあった。結果的には李登輝さんが54%という高い得票率で当選して、初代の民選総統になった。彭明敏さんは4候補の中の2位に付けたことになる。
1986年に出来た民進党が2000年の政権交代で政権を取り、彭明敏さんは総統府の上級顧問を務めることになった。
李登輝さんが2000年に総統を終えて、翌年に二人の座談会が台北で行われた。私はちょうど毎日新聞の台北支局長だったので、現地でそれを聞いていた。彭明敏さんが帰国してからも、李登輝さんは総統だし、彭明敏さんは帰国したとはいえかつての反逆者なので二人はすぐには会えなかった。李登輝さんが総統を退任したあとは、昔の友達の付き合いが戻る感じだった。
2019年、陳水扁が一辺一国行動党というのを作った際に、彭明敏さんが挨拶した。既に96歳だったが、一人ですっくと立って介添えもなしにきちんとした挨拶をしていた。
私が本を書いて、それを彭明敏さんに送ったあと届いた礼状がここにある。「年のため普通のメガネは使えず手持ちの拡大鏡を使って徹夜で全部読みました。」とあり、日付を見ると私から本を受け取ったその日のうちに、読んだようだ。普通なら「私の本を書いてくれてありがとう」で済むところを、やはり研究者であって、中身に何が書いてあるかチェックしないと気が済まなかったらしい。
「私はやはり日本に根があるのではないかと存じます。」とも書かれていて、ネイティブ同然の日本語できちんとした礼状を書いていただいた。
日本と台湾と欧米と3つの世界を行き来した、ということは李登輝さんもよく言うが、まさに最後にその一つである日本の世界というものを書いていただいた感がある。
彭明敏さんは4月8日に亡くなられた。一家は長老教会の流れだが、本人は「私はあまり良いクリスチャンではなかった。教会にもあまり行かなかった。」と言っていた。亡くなる直前に、洗礼を受け、キリスト教徒として亡くなることに、筋を通した。大げさな葬式はするなという遺言を残して、今は高雄のお墓に眠っている。コロナ禍が明けて台湾に行けるようになったら、私も真っ先にお墓にお参りに行きたいと思っている。
【質疑応答】
京大の李登輝さんと東大の彭明敏さん二人の同じ年の超エリートが二二八事件で助かった経緯は?台湾にとって幸いだったと思う。
二二八のとき、彭明敏さんは台湾大学の学生だった。おかしいことにはおかしいと言うタイプの人だが、学内でも目立った動きはせず、台北郊外のおばあさんの家に籠もって難を逃れた。
ただ、お父さんは当時高雄で医者をしながら市議会議長をしていた。逮捕され処刑直前までいったが運良く助かっている。お父さんあてに「台北でこんなひどいことが行われている」と彭明敏さんが書き送った手紙は全部検閲されていて、地元の名士であったお父さんが警察から注意された、ということがあった。
李登輝さんは知り合いの米屋の倉庫に隠れて難を逃れている。
二人とも、歴史的に見ればよくぞ逮捕されずに済んだと思うが、変な動きをしていれば逮捕される危険はあった。
自救宣言に「独立して国連に入り直す」ということが書いてあったが、中華民国が国連から脱退して国としての地位を失った経緯を教えていただきたい。
1971年にアルバニア案が出て、中華民国が自ら脱退するという形をとったが、アメリカなどは、国連安全保障理事会常任理事国の地位は中華人民共和国に譲っても国連に留まることを働きかけた。蒋介石は漢賊並び立たずで、安全保障理事会常任理事国の地位を追われるなら国連そのものから抜けると言って脱退した。歴史にIFはないが、そのときに脱退していなかったとすると、今の中台関係は今とは別の動きになっていただろう。台湾はいまでも自らのことを国だと主張するが、国連から抜けたことで国際社会が認めなくなってしまった。
台湾は日本の植民地だったと言われる。戦前の帝国議会で、朝鮮・台湾は植民地か内地の延長かの議論があり、国内の延長という結論から、小学校から帝大まで学校制度の整備などが行われた理解している。欧米の言う植民地とは違っていたと思うが、この点についての見解はいかがか。
台湾でも総督が絶対的な権限を持っていて、三権分立の仕組みがなかった。議会設置の請願運動等も起きていたが、議会を作らせなかった。貴族院議員の任命を行おうという動きが出てきたのも終戦直前で実現しなかった。内地とは明らかに違っていた。欧米の言う植民地とは違うが、植民地ではない、ということはなかった。
台湾での特務のことを紹介いただいた。ご自身が台北支局長だったときの体験で、監視されているという感覚を持たれたことはあったか。
私が赴任したときに先輩の人から「君大変やな。台湾では尾行されるぞ。」と言われたことがあったが、直接経験したことはない。本で紹介したように、日本の各メディアが台北に支局を作ったころ、国民党が各支局長の歓迎の宴席を設けた。その時、建国独立連盟主席の黄昭堂さんが同席していて、終わったあと飲み直しの場で、「さっき奥の席にいてしゃべらなかった男は国民党のスパイだよ」と言った。黄昭堂さんはそのようにされてきた身なので、何となくわかるようだった。
彭明敏さんの経歴に関西学院から旧制三高に行かれたとある。インタビューをされた際に、関西に関する思いなど話されていたことがあれば紹介いただきたい。
彭明敏さんは、2003年頃に関学の名誉教授になられて、当時の学長から授与式を受けている。お話された中では、三高の自由な気風の影響が大きかったとおっしゃっていた。三高の中には、自由に思うことを書いてごらんという先生がいて、軍国主義を批判したところ、「これは外では言ってはいけない。私だけでとどめるから」と言われた経験もしたそうで、当時、そのように自由に書かせること自体、他の学校ではしていなかった。自由な思想を重んじる三高の気風が、自由や人権、民主ということをずっと貫いて、自救宣言を書くことにもつながっていたのではないか。
李登輝さんも京大なので、当時のエリート知識人でその後台湾の民主化を成し遂げた人達の中に、関西というか京都というか自由な気風が影響しているということを私自身も感じた。私が関西人で大阪が長いということを話すと嬉しそうにされていた。
おわりに
蒋介石から目を掛けられて、放っておいても間違いなく地位を約束されていた身で、30代で中華民国国連代表団の顧問にもなっている。それをなぜ投げ打ってまで、彭明敏さんは蒋介石に反逆する立場になったんだろう?ということが私はずっと気になっていた。
それに対する直接的な答えではないが、李登輝さんも彭明敏さんも共通して、並みのエリートではなかった。身の危険を案じて海外脱出を勧めてくれた牧師に対しても、彭明敏さんは最初、「私は台湾に対して責任がある。台湾を離れてしまうと責任を果たせない。」とずっと断っていた。それほどまでに、自分の命の危険が迫っていても、台湾に対する責任を自覚していたところに、まさに選ばれた人達が持つ責任感や義務感があったのだと感じている。それは、単に帝国大学に入ったからというだけではなくて、エリートの中でも選ばれた人達というのがあって、それに応える気持ちというのがあったのではないかな、と思うので、そのことを追加しておきたい。
コメントをお書きください