第01話 じゅもんがちがいます 

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第02話 食堂のご夫婦のおもてなし

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第03話 我送你禮物(ウォ ソンニィ リーウー)

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第03話 我送你禮物(ウォ ソンニィ リーウー)

佐藤 猛志

 

  この“我送你禮物”は、台湾華語初学者の私が割と最初に覚えた言葉だ。「あなたにプレゼントします」という意味なのだが。何故これを最初に覚えようと思ったか。その理由を書いてみたい。

 

  何回か台湾にツアーや団体で旅行した後、最初に一人で行ったのが台南だった。中心部に宿をとった私は、夕食に少し離れた花園夜市迄タクシーで出かけた。食後少しブラブラした後、通りかかったタクシーの運転手に、手書きのホテル名を見せると、うなずき招じてくれたので、普段通り、勿論これから起こることの心配もせずに乗り込んだ。

  

  そんなに繁華ではない夜の街並みはもうすでにシャッターを閉めた店もある。突然、タクシーが止まり、振り向いた運転手が、道がわからないので降りてくれと言うのである。言葉はわからないが、それは間違いない。タクシー代をそこまでの半額にしてくれはしたが、降ろされた私はどうしようと相当焦った。

  

  意を決して、開いていた自転車屋かバイク屋だったかのお店に入った。ご年配のご夫婦がやっている小さなお店だったと思う。聞き覚えの、数少ない台湾語で「パイセー、パイセー」。手書きのホテル名を指差しながら「ゴアシュウベーキー・・・」。すみません。私はこのホテルに行きたい。と店のご主人に何とか伝えると、お二人はそのホテルを知らなかったようで、直ぐにパソコンで調べてくれた。

 

  貴方はどのようにしてここまで行くのか?歩いて行く。無理無理!身振り手振りで、そんな会話があった後、ご主人は私にポンとヘルメットを渡してくる、なんと店先にあったスクーターの後ろに乗れというのだ。『えっ。送ってくれるの?』。確かに5分10分ではなかった。歩く距離ではない。暫く走って、ホテルの前迄送ってもらってしまった。何とかお礼をしたいが、何も持っていない。失礼とは思いながら、財布を出しかけると、いらないと制される。結局、「多謝!多謝!」とお礼だけ言って別れるしかなかった。

 

  次の日、このままでは気持ちがおさまらないので、割と高価なお菓子を買って、タクシーに乗り、いただいていた名刺を運転手に見せて、何とかその店にたどり着いた。日本の旅行者が何故こんな所にと怪訝な顔をしている運転手に「ショウタンチレ」ちょっと待っててと言い残して、お礼を渡したのだった。

 

  台湾を一人で旅していると、台湾の人からの親切、それも、「ありがとう」の言葉だけでは済ませにくい親切をよく受ける。日本人も外国人旅行者には割と親切に対応していると思うが、台湾人は別格だ。それ以来、現場で慌てないために、個人旅行の際には、あらかじめ五百円程度のお土産(お菓子)を5個程度、日本で買って持って行くことにしている。それほど、台湾人の親切に出会う機会が多いのだ。

 

  親切にしていただいた方に、最後に、「多謝、多謝。どうもありがとうございました。」の後に、お礼の品を渡すのだが、黙って渡すのも変。ちょうどこの頃、台湾華語を習い始めていたので、最初に冒頭の“我送你禮物” を覚えたのだ。相手が日本語ペラペラでも、日本語でお礼を言った後、「ということで、我送你禮物。これを、受け取ってください」と使っている。

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第02話 食堂のご夫婦のおもてなし

ふぉるもさライダー

 

  数年前の9月。私は、花蓮縣にある瑞穂温泉へとスクーターを走らせていた。前日に花蓮市内で借りた125ccの相棒は、「台東まで行くなら、よく走るやつがいいな。」とバイク店の兄ちゃんが選んでくれただけあって、すこぶる快調だ。

  昼前に、ある集落のはずれで1軒の食堂に入ることにした。ご夫婦二人の小さいお店だ。

 

  台湾華語がほとんどできない私は、もっぱらメニューを指さして「我要ちぇいが」(これちょうだい)とオーダーすることが多い。この店は壁にメニューを貼ってある。テーブルにメニューを置いていない大きい店だと壁まで行って示すのが大変で、実はレーザーポインターを持ち歩こうかと真剣に考えたこともあるくらいだが、幸いこの店は壁が近くて助かった。

  この時は見たことのない「什錦麺」というものを試してみることにした。


  しばらくして運ばれてきたのは、初めて見る「揚げ入り海鮮麺」(?)だった。

  お客は私ひとり。黙々といただき、お勘定のあとで、せっかくなので店の大将に「瑞穂温泉へは前の道を西に行けばいいですか?」と筆談で聞いてみることにした。私としては軽い気持ちで「そうだよ。」とうなずいてくれる程度のリアクションを想像していた。

  ところが、ここから食堂の雰囲気がにわかに慌ただしくなったのである。

大将があちこちに電話をかけはじめたのだ。そのうち、奥さんが、切ったグアバをお皿に乗せて出してくれた。「これ食べながら待っててね」ということのようだ。

 

  何軒か電話をかけた後で、大将が残念そうな顔で出てきて身振り手振りで伝えようとしてくれたのは・・・「日本語が話せるおじいさんに連絡をとろうとしたが、昼寝中でだめだった。」ということらしかった。

  大将は、恐縮している私の脇をすっと抜け、店の前に駐めてあるトラックの運転席に滑り込んだ。エンジンをかけて何か叫んでいる。

 

  「わしに付いて来い!」と言ってる?

 

  せき立てられるように、急いでヘルメットをかぶりバイクにまたがった。さっき遠慮がちに食べかけたグアバを、奥さんが袋に入れて渡してくれた。時速80km以上のスピードでトラックを追いかけてようやく追いついたが、大将はスピードを落とす気配がない。私は道に迷ったわけではなく、この道を行けばいいかどうかを確認したかっただけなのに、えらいことになった・・・ そう思うものの、言葉が通じないので成り行きに任せるしかない。

  10分ほどトラックの後ろについて走っただろうか、前方に「瑞穂温泉→」の案内標識が見えた。思い切って追い越し、トラックの前に回り込んで止まってもらう。

  バイクを降りて大将に頭上の案内標識を指さし、OKですと伝えると、「あとはわかる」ということを理解いただけた。「多謝!多謝!」と心からお礼を伝え、引き返していく大将のトラックを見送った。

  ふと距離計を見ると、さっきのお店から7~8kmは来ている。これから同じだけの距離を戻っていただくことになるわけで、申し訳ない思いでいっぱいになった。

  瑞穂温泉のさび色のお湯を堪能しながら、改めて食堂の大将のことを考えた。

自分だったら、同じようにできるだろうか。台湾の人達から親切にしていただいた経験を振り返ると、「考えるよりも先に体が既に動いている」そんな方が多いような気がする。

  困っている旅人を放っておけない。それが日本人なら尚更放っておけない、そんな感じなのだろうか。ありがたいことである。

 

  一軒宿の瑞穂温泉には、日本の温泉街でふつうに見かけるようなお土産的なものは見当たらなかった。このまま失礼すると、改めてこの近くまで来る機会はないかもしれない。何かお礼を持って、さっきの食堂に立ち寄っておきたいと強く思った。

  帰り道のセブンイレブンで「キティちゃん」がでかでかと描かれたインパクト満点の箱入りのクッキーを見つけ、くくりつけるひももわけてもらった。そして落とさないように気をつけながらバイクを走らせた。

お店を再訪すると、ご夫婦揃って驚かれ、キティちゃんの箱を見て満面の笑みを返してくださった。言葉できちんとお礼を伝えるスキルを持ち合わせていないことが本当に残念だが、感謝の想いは受け止めていただいたように思う。

 

  見ず知らずの台湾の方に、こんなふうにお世話になってしまうことがよくある。

私の語学力の拙さが一因なのだから、何とかすべきなのは確かだ。いつも帰りの飛行機で同じことを思いながら、次回の訪台まで何もできないことが続いている。

  

  台湾へ行くたびに素敵な経験を重ねて、私は哈台族(はーたいず)(台湾大好き人間)になった。

 

麺一杯頼み道問ふ外人を先導したまふ小吃店(メシヤ)主人(あるじ)

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第01話 じゅもんがちがいます 

杉中 学

 

  私が中国語(北京語)を習得するため、台北の臺灣師範大學國語教學中心に行ったのは、1983 年のことでした。当時の台湾は蒋経國総統の施政下、まだ戒厳令が敷かれており、色々な制限もあった時代でした。町の人々は、一見すると日本と変わらないような平和な暮らしをしているように見えましたが、高速道路の料金所や大きな橋のたもとには、銃を持った兵士が立ち、街の中を憲兵隊が巡邏している姿も毎日のように見かけるなど、台湾と中国とが対峙していることを実感していました。

 

  私は師大での語学留学の後、日本企業の駐在員として引き続き台湾に住み続け、在住期間は7年に及びました。その頃の私は 20 代後半から 30 代前半で、同年代の日本の友人たちは学校を卒業して会社勤めをし、一方、まだ結婚には早いという年代、言い換えれば自分の給料は好き勝手に使えるという、つまり「独身貴族」の時期。友人たちは次々と私を訪ねて台湾へ遊びにやって来ました。

 

  その中の一人である高校時代からの親友が、発売されて間もなかった「ファミコン」を土産に携えてやって来ました。今から思うと単純なゲームばかりだったのですが、それでも当時の貧乏留学生の間で、ファミコンがあっという間に流行しました。しばらくすると「ドラゴンクエスト」が登場し、面白いゲームだとの日本での噂が台湾にも伝わりました。

 

  その時代の台湾では著作権を始め、知的財産権はほとんどないに等しく、街中には書籍・CD 等の海賊版が氾濫し、日本でのファミコンブームに乗って、台湾でも安価なファミコンのゲーム機やゲームソフトの海賊版が、あっという間にあちこちで見られるようになっていました。

  街中に現れたゲームソフト屋でも、話題の「ドラクエ」が日本で買うよりずっと安い値段で売り出され、日本の貧乏留学生はこれに飛びつき、時間があればゲームに興じました。しかし、「海賊版」の悲しさ、ゲームソフト自体は安く買えるものの、さすがに説明書までは付いていないため、ゲームが進むに連れて手に入れるアイテムや魔法などの内容や使い方がわかりません。体力を大きく回復する呪文をすでに身につけていながら、その使い方を知らず、大量の「薬草(体力を少しだけ回復できる)」を持ったまま、地下ダンジョンで「のたれ死に」を繰り返す友人もいました。

 

  そんな時はゲーム仲間同士で情報交換をしながら、ゲームを進行させるのですが、今のようにスマホや携帯どころか、PC もない時代、自分の頭に「?」を秘めたまま、ゲーム仲間に会う機会を待つか、どうしても待ちきれない場合には固定電話で連絡を取ってヒントを得る、といった様子でした。

 

  ファミコンゲームは、当然のように瞬く間に台湾の子供たちの間にも浸透しました。ゲームソフト屋の店内には、ファミコンがつながれたテレビが何台も置かれて「にわかゲームセンター」と化し、近所の小学生が群がっていました。画面の上方から現れて襲ってくる敵を次々に打ち落としていくシューティングゲームに熱中する子、「スーパーマリオ」に興じる子もいましたが、なんと「ドラクエ」の画面をのぞき込み、魔物たちと戦いを繰り返している子供も少なからず見かけました。「ドラクエ」を始めとする RPG(ロールプレイングゲーム)は、画面に現れるシナリオ展開に沿って、「はなす」「しらべる」「たたかう」「にげる」等のコマンドを指定しながら進めていくゲームで、表示の言語(「ドラクエ」の場合は日本語)が理解できなければ、ゲームは進めようがないはずなのです。しかし台湾の若きゲーマーたちは、そんなことはお構いなしに、私たち日本人と同じくらいのスピードで、どんどんとゲームを進めていました。

 

  しかし彼らには一つの大きな関門がありました。RPG は、ゲームを全てクリアするには長い時間を要し、1日ではとてもゲームを終えることができないので、ゲームの進んだところまでを記憶しておかなければなりません。現在のゲームソフトには、ゲームの進度を記憶できるのに十分な記憶容量があり、ボタンを1回押すだけで、ゲームのデータが簡単に保存できます。しかし、その頃のゲームソフトは記憶容量がごく限られていたので、これまで進めてきたゲームを次回も引き続いて行うためには、ゲーム中断時、画面に現れる「復活の呪文」と称するパスワードを書き写しておき、次にゲームを再開する際に、この「復活の呪文」を入力しなければなりませんでした。

 

  「ドラクエ」の場合、「復活の呪文」はすべてひらがなで、しかも初期のゲームは画面の解像度が悪く、「あ」と「お」、また「ぬ」と「ね」と「め」などの文字の判別が難しく、私たち日本人でも、時々呪文を書き写し損ね、メモしておいた呪文を入力してゲームを再開しようとしたところ、「じゅもんがちがいます」という画面が現れ、それまで長い時間掛けて進めてきたゲームのデータが回復できず、費やした時間が全て水の泡になってしまうことがありました。

  ゲーム屋の子供たちは、なんとこの呪文を一生懸命ノートに書き写していました。日本の子供は一人としておらず、またこれらの台湾の子供たちが日本語を学んでいるということはあり得ません。つまり、彼らにとっては、テレビ画面に現れた、その読み方すら分からない謎の記号を書き写し、そして次にゲームを再開する時には、この記号を一つ一つ画面から探して入力する、という作業を行っていたのです。

  彼らもまた、パスワードを書き写し間違え、現れた「じゅもんがちがいます」の画面を見て、「なんでゲームの続きが出来ないの? 一体、なんて書いてあるんだろう?」と首をかしげていたことでしょう。

 

  その後、台湾のゲーム少年たちが日本語を学び、呪文の文字が読めるようになったのか、また自分のやっているゲームのストーリーを理解することが出来るようになったのか、30 年以上を経た今となっては知るよしもありません。

 

  彼らがこのような形で初めて日本語と接触していた戒厳令下の時代、日本語の歌やテレビ番組が公共の電波に乗ることはなく、また日本語を専門的に教える日本語学科も、わずか 4 つの私立大学に設けられているのみでした。

 

  日本に帰った今、語学留学やワーキングホリデーで日本に滞在している台湾の若者たちに聞くと、「日本のゲーム・アニメ・J ポップ・ドラマが好きで、日本や日本語に興味を持ちました」という答えが少なくありません。彼らにとっては台湾にいても、日本の映画やテレビ番組を日本とほとんど時差なく見ることができ、また日本語の専門教育をする学校も増え、あるいは独学で日本語を学ぶ場合でも、インターネットで実に手軽に機会を得ることができるなど、私が住んでいた時代とは、まさに隔世の感があります。 

 

  そんな時、「じゅもんがちがいます」の画面を見て呆然としていたであろう、あのゲーム少年たちは、今どうしているだろうか、と思い出します。きっと何人かは日本語の達人になっているのでは、と勝手に想像しています。

 

  (*写真はインターネットからの転載です)

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第04話 ビーフンを探す旅 

西岡 敏也

 

  私は麺好きだ。と言っても毎日食べている程ではない。ただ、これは旨い!という麺を喰ってみたいという想いがずっと有る。私は麺の中でもとくにビーフンが大好きだ。台湾に関わらず旅行先でメシを食う時かならずビーフンが無いか確認をする。

 

  おっと、ビーフンは麺じゃないって?見た目も細長くつるつる食べられるから麺じゃないか。と言いたい所ですがその通りです。細かい話をするならば麺とは小麦を元にした食べ物。なので中華圏ではラーメンの麺は当たり前として小麦で作ったお饅頭や餃子も麺類になる。一方ビーフンは米粉と漢字で書く通り米を原材料としているので麺類ではないのだ。細かく言うと。なので正しくは私はビーフンが好きだ、というべきなのだろう、細かく言うと。

 

  それはさておき、では早速ビーフンの話を。

  

  日本でビーフンといえば、だれもが知るケンミンの焼きビーフンでしょう。神戸に本社をおくケンミンは1950年に健民商会として神戸でビーフンの製造を開始。当時戦地からの引き揚げで帰ってこられた人々のビーフンをもう一度食べたいという声に応えたものだという。会社名であるケンミンはこの健民から来ており、由来は創業者の高村健民さん。なんと台南出身の方だ。麺類繋がりでは日清の創業者である安藤百福さんも台湾出身である事を考えると日本の麺はなんと台湾と深い縁が深い事か。

 

  そのケンミンのビーフンだが、焼きビーフンと銘打ち販売されている通り味はあくまでも焼きが入っている味だ。これがビーフンなんだな、と日本で食べている方は思うかもしれない。が、私は少し違和感が有った。何か違う。それは別にケンミンの焼きビーフンがまずいとかわるいとか言っているのではなく私の想像するのとはちょっと味が違うのだ。言っておくがケンミンの焼きビーフンはおいしい。私自身、ケンミンの焼きビーフンを食べるときは3玉、4玉と一気買い、一気調理、一気食いするくらい好きだ。ビーフンを山盛りにして一気にかき込むのが好きだ。

 

  だが、、。

 

  私は小さい頃に東南アジアに住んでいたことがありその時ビーフンを食べた記憶が有った。だがその時のビーフンは焼きビーフンではなかった。その時の記憶を知らない間に追いかけていたので違和感が有ったのだと思う。台湾で食べるビーフンは焼きが入っておらず蒸しや茹でをベースに味付けをしているので焼きビーフンとは味が違ってくるのだろう。私はどちらかと言うと台湾で食べるようなビーフンが好きだ。人それぞれ嗜好はあるだろうから台湾でビーフンを食べた事が無い人は一度トライして頂ければと思う。

 

  台湾に行くたびにメシやにビーフンがあれば食べていた。その時の話をします。

 

  これまで何回か台湾に行っているが始めのときに行った際に注文した時の話をひとつ。

  

  久しぶりに本場のビーフンを食べたいと思い、店を探し入店。とりあえずビーフンをと思い、メニューを指差し注文。昔食べた味が思い出され、今か今かとビーフンが出て来るのをまつ。店奥からおばちゃんが器を高々と挙げ出て来た。ついに!とわくわくし、目の前に出されたのはなんと! ???。ちょっと太いビーフン、というよりうどん?、改めてメニューをみると、米台目と書いてある。米と書いてあるのでビーフンを期待していたのだが、ぜんぜん違う。ワッツディス!?とおもいつつも食べてみると、美味しい事はおいしい、、だが、なんだろう、プリンを食べよう!とおもって口内プリンモードになっていたのに茶碗蒸しがでてきたような、まずくはないが・・という感覚だ。

 

  米台目とは原材料は米なのだが、それをちょっと細いうどんくらいの細さにして10cmくらいの長さになるよう加工したものらしい。東南アジア一帯で食されており場所によっては鼠の尻尾と呼ばれているらしい。これはこれで有りだと思う。ビーフンの親戚のようなものだ。ネットで調べてみると、またあれがたべたい!というようなサイトも見受けられるので美味しい事は美味しいのだ。(写真はWikiから拝借しました)


  それではあらためてビーフンの話を。

 

  台湾でビーフンといえば!?、そう、新竹だ。IT産業の街で知られる新竹は実は日本の思想家、埴谷雄高の出身地でもあるらしい。偉大な思想家のようですが、私とは縁遠い方なのですこし触れる程度に留めておきつつ、この場所は海からの風が強く吹くため、それがビーフンの製造工程で乾燥させるのにちょうど良かったようだ。ビーフン好きの私からすると、この新竹は聖域でありメッカであり、お伊勢さんであり、いつかお参りせねばと思っていた場所である。

 

  何回目の台湾訪問だったろうか、私は台湾に行く度に毎回テーマを決めて行くのだが、この時はビーフンの聖地探訪だった。

 

  皆さんも経験があるとおもうが、これを食べるならこの場所!といって、では、その場所にある全ての店が旨いかと言うとそうではない。寿司食うなら日本!といって、では日本全国の寿司屋が旨いかというとそうではないのと一緒だ。なので新竹でも果たして何処が旨いのか?をしっかり下調べしつつ、一方で自身の足で歩いて旨い店を発掘する、これが旅行の醍醐味と言うものだろう。

  そんな新竹で、ここで食べてみー(関西弁)と紹介されたのが城隍廟屋台だ。ここは御廟の中に屋台が並ぶ不思議な空間。日本人からすると神社の屋台のようなものか。台湾の御廟はまるで迷路のようだ。迷う事はないのだが、昼迄も屋根が覆い被さってすこし薄暗くなっているのが、そう感じさせる。そこに台湾独特のアルミテーブルを広げた屋台が広がっている。

 

  ビーフンは直径1メートルくらいの大きな金属状のせいろのようなものに高さ50cmくらいで堆く盛られている。焼きビーフンとは違い、柔らかく蒸されており、しかも細い・・・。釣りをする人ならイメージできるだろうが、2号テグスくらいの細さだ。そこに独特の香辛料の香りがする、たぶんそぼろ肉を煮付けたものが汁と一緒に振りかけられている。

 

  注文するとそこから小さいお椀に盛ってくれる。ビーフン山から橋でつまみ出す時に溢れ出す湯気から原料である米を炊いたにおいがする。それを思いっきりかぐ。ここが焼きビーフンと違う所だ。米の香りがするのだ。これでこそビーフンだ。うまい、うまいね、本場で食うビーフンは。思いあまってお代わりをしてはいけない。腹は八分目、明日もまた食える。

 

  では、私が一番旨かったと思うビーフンはどれか? 

 

  

  それは新竹で食べたものではない。実は瑞芳の屋台で食べたものがいまのところいちばん旨かった。そこは普通の駅前の屋台村のビーフン屋台だ。2日連続で食べに行こうと思っていたら、2日目は休みで残念な思いをした。その食べられなかった思いが更に旨さを増しているのか?もしかしたらそうかもしてない。だが写真を見てもお分かりだろう(ぜひリンク先を見てください、当時のおっちゃんがまだやってるし!)、この旨さ!いつもの巨大パレットに堆く盛られたビーフン山!注文すると、皿に一盛り。朝からビーフンの隙間から漏れる米のにおい、立上がる湯気!ビーフンには何も足さない、何も引かない。あっさりしているのに肉汁を甘くし醤油を加えたマジックスープで味付けしてある。うまい!ビーフンはビーフンだけで食べるのがやっぱり一番旨いよ(注:筆者の個人的な感想です)


  朝ビーフンを胃の中に一気にかき込み今日は何処へ行こうかと屋台の活気の中でまだ見ぬ台湾に想いを馳せる。ちなみに、瑞芳の奥には九分、さらに奥に金瓜山がある。九分は言わずと知れた観光名所だが、元は金鉱山だ。台湾好きを自称するあなたにはぜひその奥まで行ってもらいたい。日本統治時代、九分は私営の、金瓜山は公営の鉱山が運営されておりそこに街が有った。当時金瓜山鉱山は東洋一の鉱山と言われ金以外にも様々な鉱物を産出。さすがにお国が関わっていたとわかる通り金瓜山には巨大な精錬設備後がひっそりと残っている。十三遺構と呼ばれるそれは、まるで地上のラピュタ島だ。記念公園も周り昔ここで生きた日本人の息吹を感じよう。九分からほんの少し先。街の雰囲気を活かした観光地にはその土地なりの歴史が有るのだ。

  さて、最後に心に残るビーフンを。

 

  私は台湾に行く時、必ず高雄経由で入出国する。南が好きだとか、微妙に安い飛行機便があるとか小さな理由はあるのだが、

もっとも大きな理由は帰国の最終日に高雄日僑学校を見てから帰国するようにしている為だ。

 

  私は中学生の頃、父の仕事の関係で高雄に住んでいた。また戒厳令が敷かれていた頃だ。台湾にハマる何年か前に久しぶりに高雄へ行った。高雄日本人学校の閉校式だった。閉校式と言っても学校自体が無くなる訳ではなく、校舎が耐震に問題有りとして学校の場所を移動する事になったのだ。とは言え、昔と比べて駐在員も減り日本人児童も減ってしまったので新しい校舎を建てず

台湾の児童が通う建物を間借りして運営する事となった。

 

  私は残された旧校舎がどうなっているのかを高雄へ来る度、写真を撮りSNSで昔一緒に学校へ通っていた皆に配信するのが日課、というか高雄へ来たときの決まりになっていた。一年目、二年目と人のいなくなった校舎、昔泳いだプール、あの時は大きく見えた運動場が果たしてどうなるのか、皆、懐かしさと期待で色々なコメントがSNSに溢れた。ここで学んだ仲間達はなぜか強い絆で結ばれていたのだ。

 

  そして数年後、台湾旅行の最終日、飛行機の便迄まだ時間があるので恒例の昔の校舎ツアーに出かけ、驚いた。近づけど建物は見えず、現場に着くと何と瓦礫の山がそこに堆く積まれていたのだ。そう、誰もが何かに使われると期待しつつも心の中ではもしかして、と過っていた不安が現実のものとなってしまったのだ。冷静に考えればそれはわかっていた事だった。耐震の問題で場所を移ったのだから、この建物はもう使えなくなっていたのだ。

 

  高雄日僑学校の歴史は日中国交正常化の時まで遡る。当時高雄で増えて来た日本人子弟の為にと台湾の方が御好意で提供してくれたものだった。しかしまさにその時、日本は中華人民共和国と国交回復を行い台湾と国交を絶ってしまったのだ。その方は高雄市長と言う立場も有り如何程のご苦労が有ったで有ろう事は想像に難くなく、それでも日本人の為に尽力してくれた台湾の方々の想いには本当に、ありがとう、以上の言葉が見つからない。

 

   そんな想いを持ちつつショッキングな現場に遭遇し肩を落としてホテルに帰る。私がいつも泊まるホテルはビジネスマンが出張によく使うのか、日本人サラリーマンの出張者によく会う。その為か、結構奇麗な所なのだがリーズナブルなお値段なのだ。ヲシュレットもついている(これ大事)。私は大概一度台湾に旅行に来ると台湾を一周するプランを立ててゆっくり廻るのだが、

その間、いろんなトラブルに遭遇しつつも最後の日はスカッとした環境でゆっくり出来るよう、ここと決めている。

 

  そのホテルの裏がちょうど大きな市場になっているのだ。活気溢れるその市場で帰国後に使う調味料等物色しつつ台湾旅行の最後の締めとしていつもよるのが市場の中に在るビーフンおばちゃんの所だ。ここのビーフンも瑞芳のものに負けず劣らず旨い。あえて何か言うなら、すこし、ほんの少しだけ水っぽいのだ。けどそこは活力在るおばちゃんの笑顔と貢丸湯をほおばって、うまい!と言いつつ、また台湾に来よう!と短い旅を締めくくる。

 

  ビーフンをもとに思いつく所をいろいろと綴ってみましたが、あらためて思うのは、果たして旨いビーフンだけだったら、これだけ「旨く」感じていただろうか、と言う事だ。小さい頃の思い出の味、台湾と言う風土、そして台湾の人々。それらが組み合わさって私は「旨い」と感じているような気がする。なのでたまにどこかで同じ味のビーフンを食べる事が出来ると、それらが脳裏にパッと蘇る。

 

  もしかしたら、昔、敗戦後引き揚げて来た日本の方々も、ビーフンにそんな想いを持っていたのかもしれない。時代は違えど、私にとってのビーフンも同じで、幼少の記憶や台湾のすべてが詰まった食べ物なのだ。私にとって旨いビーフンを探す旅は、そんな思い出のかけらや台湾の人々の想いを一つ一つ拾い集め、繋ぎ合わせて行く、そんな旅なのかもしれない。

 

  みなさんにもないですか?そんな台湾の思い出の食べ物。きっと在るはずです。またそれを探して食べに行く、そんな台湾旅行もいいじゃないですか。

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