10月29日、台風の近づく中、京都は伏見稲荷にて第52回集いを開催致しました。今回はいつも講演頂いている近代史から少し時代を下り、台湾の現代史をその時を実際に歩んで来たお二人に講演頂きました。一人目は李さん、二人目は杉中さんです。李さんからは台湾人が台湾で日々の生活の中でメディア等を通じて見て来た現代の日台交流、日本人が知らなかった台湾人の日本に対する思いをご自身のご経験から存分に語って頂きました。次に杉中さんからは同時代に留学生として滞在したご経験から始まり駐在されていたときのご経験をもとに日本人の目からみた日台交流を語っていただきました。
講師ご紹介
李久惟(リ ジョーウェイ)氏
1975年台湾高雄生まれ 拓殖大学客員教授。多言語文化研究会代表、日本李登輝友の会理事。専門は語学教育、歴史、比較文化、国際関係論、異文化コミュニケーション。2000年東京外国語大学卒業、台湾高速鉄道(新幹線)プロジェクトに従事。15言語以上を話すマルチリンガルであり、野球やサッカーの国際大会や沖縄国際映画祭などさまざまな分野における通訳・翻訳を経て、現在は通訳翻訳会社の経営に参画する傍ら、主に教育分野で語学講師・セミナー講師として活躍。さらには多くの国際交流事業や講演・執筆活動を行う。主な著書に「台湾人から見た日本と韓国、病んでいるのはどっち?」「台湾人が警鐘を鳴らす“病的国家”中国の危うさ」(共にワニブックスPLUS新書)、「本当は語学が得意な日本人」(フォレスト出版)、「日本人に隠された《真実の台湾史》」(ヒカルランド)等がある。
講師ご紹介
杉中 学(すぎなか まなぶ)氏
1956年生まれ。日本獣医畜産大学(現:日本獣医生命科学大学)在学時に父が単身赴任していた台湾を訪れたのが、台湾との関わりのきっかけ。大学卒業後、商社勤務の後、台湾師範大学国語教学中心で2年間中国語(北京語)を学ぶ。
帰国後、日本企業の台湾駐在員として台北・台南に駐在。その後友人と台湾現地紙の翻訳サービス「台湾通信」を起ち上げるも、ビザの問題から帰国。製薬会社の国際部門に在籍し、主に中国語圏のビジネスを担当、7年間の中国青島での駐在をはさみ、約25年奉職し、今年定年退職。
ノンフィクソン作家・門田隆将氏の「汝、ふたつの故国に殉ず」執筆に際しては、インタビューの通訳や資料の翻訳・分析などで協力している。中国語通訳案内士。
当日の講演録
講演1 台湾人として日本人に望むこと 李久惟(リ ジョーウェイ)氏
「たけほー」 (皆さんこんにちは。)
私が多言語をたしなむのは、言葉から文化を学ぶことを大事にしているからです。学生時代から国際試合の都度、通訳をしてきました。日本語世代ではありませんが、自分なりに日本と台湾を考えるひとりとしてがんばっていきたいです。
台湾新幹線の立ち上げにも翻訳などで携わり、日本の新幹線が台湾をはじめて走ったときには関係者と涙しました。祖父母の会話が日本語だったので、台湾語になっているような言葉は、子どもの頃からわかりました。台湾人には日本語が話せなくても日本語の歌を歌える人がたくさんいます。台湾と交流する上では日本人もそうされるといいですね。
修学旅行の行き先で、生徒数では台湾が1位になりました。学校数で見ると、アメリカへ行く学校が多く、台湾は2位、シンガポールが3位です。台湾から日本へは年間417万人(台湾人の5人に1人)が来ています。日本からは190万人(26人に1人)です。日台間の就航便も、地方空港との運航頻度も増えていて、日本と台湾の間には717便が1週間に飛んでいます。1日100便が飛んでいることになります。鳥取県の倉吉では、家族旅行など小グループの台湾人を見かけます。高知の桂浜にも、台湾人がたくさん来ています。桂浜でアイスクリームを売っている人は、台湾人と中国人の区別がわかるそうです。静かに風景、建物を見て、碑文を漢字で追って日本の文化に触れ合おうとしているのが台湾人でやさしい感じがします。一方、甲高い声で不快な感じがするのが大陸からの旅行者です。
台湾人が日本に来て困っていることのひとつに、「中国語を話していると嫌がられる。」があります。中国人と間違えられるからで、台湾人は小さい声で話すようになりました。今日は、台湾人が人によっていろんな歴史観を持っていることなどをわかってほしいです。岩手めんこいテレビの取材クルーが台湾を訪れ、新渡戸稲造と伊能嘉矩(いのうかのり)について取材しました。伊能嘉矩は、後藤新平よりも早くに台湾入りして台湾を一周し、原住民を研究した文化人類学者です。日月潭の近くでツァオ族の里を訪ねたのですが、日本人が行くと「マーヤが帰ってきた!」「あなたがたはマーヤでしょう?」と言って歓迎されました。マーヤというのは、自分と血のつながりがある兄弟のことです。
通訳の仕事では、日本企業の台湾視察に支援随行することもありました。そのときに感じたことを紹介します。
日本の製品は高品質です。アジアとの競争で負けたのは、「機能が揃いすぎているせい」だと思います。もっと安くて機能が限定されていれば、負けなかったのではないでしょうか。値段も品質も日本製は下げられないもとで、他国製が基本的な機能だけに抑えて何割か安い価格で出てくればそちらが買われます。日本製は高すぎて売れないのです。
建築関係の日本の資材会社が台湾側と商談する場にも立会いました。台湾企業はその製品が欲しいのに、値段の折り合いが付きません。3年経って台湾企業が日本側からの信用を獲得できた時には、台湾企業はもう商品への興味をなくしていました。この間に競合商品も出てきているので、今度は台湾側がすぐには返事しません。取引ではスピード感が大事。「もったいないなぁ」と思うことがよくありました。
台湾と日本の国際試合では、お互いに応援しあう場面をよく見かけます。野球場で、お互いに1塁側・3塁側に分かれて座っているのに、ウェーブが起きると途切れません。お互いに感謝を示すカードが掲げられます。日台戦のあとで、台湾選手が円陣を組んで、全方向の観客に深々とお辞儀したのは有名ですね。
「ありがとう台湾」を呼びかけた人はたくさんいました。
(2012年に東京ドームでチャリティ野球試合が開催されたときに、東北から1万人以上を招待したことがありました。その時に「台湾ありがとう」の横断幕がすでにありました。)愛知で日台若手交流会の活動をしている加藤秀彦さんも名古屋から試合に応援にきていました。同時多発的に日本中から「台湾ありがとう」の声が湧き上がったのが事実なのに、フジテレビは、ひとりのツイッターから運動がはじまったかのようなストーリーに仕立てて放送しました。ツイッターの主は、自身は訪台したことはないものの、父親が台湾の駐在員をしていて、台湾は良かったという話をいろいろ聞いていました。なんとか台湾にお礼を伝えたい・・・それが形になったのでした。
吉本がエンタメ学校を沖縄に作ろうとしています。沖縄には、いま不穏な空気が漂っていますが、私は台湾の立ち位置で仲をとりもちたいです。台湾では、東日本大震災の義援金を集めるテレビ番組が、1か月以上続きました。募金の最高額は「宝くじの当選金額全額」でした。台湾選手が円陣を組んだ、あのときに、「自分達は試合に勝って喜んでいた」のを、日本選手は恥ずかしく思ったそうで、その後の日台の親善試合のときに感謝の横断幕が掲げられました。
チキンラーメンを発明した、日清食品創業者の安藤百福さんは台湾人で、そのお孫さんの代が、 東日本大震災のときに、ラーメンキッチンカーで被災地を応援しました。気仙沼や石巻で、被災した住民に現金を直接配ってまわった台湾人もいます。また、「現地に何が必要か」のニーズを聞き取りにきて、現場で求められるものを寄附した例もありました。
これらは、99年の集集大地震のとき、日本がいち早く救援に動いたこと、そのときに日本の救援隊が、台湾人の遺体を丁重に扱ってくれたことへの感謝の現れでもありました。集集大地震の際に日本から渡されたお金で、台湾側は救援装備を整えることができ、今回の東日本大震災では、それが活用されました。そして今回は、台湾の救援隊が日本人の遺体を丁重に扱いました。
エバーグリーングループの張栄発会長(故人)は、東日本大震災直後に個人名義で10億円の寄付をしたことが知られています。奧さんが日本人で、海運会社と縁が深かったのです。家族で日台の絆を深められました。台湾のパソコンメーカー「エイサー」の技術者がパソコンの内部に「日本に神のご加護を」のメッセージを会社に無断で入れ、日本人ユーザーが感動したという話もありました。311震災の支援への政府の感謝セレモニーで台湾代表が2階の一般席に案内された件は、非常に失礼なできごとでしたが、失礼な仕打ちだと思って台湾側に聞いたら、外交部の人からは 「私たちの献花場所のことで、日台の間柄が変わりますか?」と返されました。翌年のセレモニーでは、台湾代表にきちんと礼を尽くして対応したことに対して、中国が出席をボイコット。大人げのない中国との接し方を、日本人は考え直すべきです。
沖縄国際映画祭で311の義援金を集めた際には、台湾映画界からも出席者があり、台湾のメディアの人達はその場で台湾に電話をかけてくれて、3月18日からは台湾でチャリティ番組が毎日行われました。自分の顔や手に日本語の文字を書いたり、学校でメッセージを掲げたりして、「日本の平安を祈ります」のムーブメントで祈りの心を届けることも、自分達でできる日本応援の取組みとして台湾各地で行われました。
震災後、関東が電力不足になり計画停電をはじめたとき、東電の火力発電所が世界にSOSを発信して、アメリカ等から発電器を確保しました。その据え付けに、アメリカからも通訳が来ましたが、通訳の人手が足りません。日本人にも呼びかけたのに、国難のときに有償ボランティアで通訳してくれる人が日本では少なかったのです。現場は3Kの環境ですから、ことごとく日本人には断られました。言葉ができる人間を増やして、「お金ではなく人のために動ける人を育てたい。」と思います。
ボランティア活動で感じたのは、「台湾人は恩返しをする民族」だということです。高雄と台南では陳菊市長(高雄市)・頼清徳市長(台南市)が率先して、市民からの熊本地震の義援金募金を始めました。それで、1ヶ月半で集められたお金が2億円以上になりました。新たに開通した高雄MRTの車両には、一面にくまモンが描かれ、「熊本頑張れ」のメッセージになりました。
日本統治時代、日本人は献身的だったと思います。
4代総督までは台湾をフランスに売却してはどうか、という議論さえあったほどです。当時の台湾には阿片常習者が多く、産業がない。烏山頭ダムの話も、最初は大風呂敷だと思われていました。日本が台湾を統治したことの功罪はどちらもあるでしょうが、農業と水の問題を解決してくれたり、衛生状態の改善や教育で技術と精神(魂をこめて相手のためにモノづくりをする)を教えてくれたりしたことは、台湾の発展に大きく貢献しました。烏山頭ダムのモーターなど、メーカーはもうなくなっていますが、メンテナンスの技能も日本が残してくれたおかげで、今でもまだ稼働しています。戦後、台湾バナナをいちばん買っていたのも日本で、蒋経国の産業化政策を支えることができたのはそのおかげでした。戦後の台湾の国家建設の基礎も戦前の日本のインフラをベースにできました。
台湾の30~40代は反日教育を受けて育った世代で、歴史も中国大陸の歴史しか習わなかった。歴史認識が不足しています。皆さんは、「仕掛けられた反日行動」に躍らされてはいけません。八田與一の銅像を壊したのは、中華統一促進党のメンバーです。また、漁船で尖閣諸島への示威行動をしているのは、もともと日本から技術指導を受けていた台湾の煎餅会社ですが、乗っ取られて、もはや台湾企業ではありません。
台湾は多言語社会です。共存していかないといけません。ひまわり学生運動でわかるように、もう出身で区別をつけるのではなくて、未来の台湾を考えていくべきです。日本と台湾は国と国の関係でありたいと思います。日本からは、大臣級の公的な訪台がありません。中国の政府に過剰な気遣いをせずに、歴史認識で自信を失わずにいてほしいです。そして、おごらずにいてほしいです。おごると周りが見えなくなりますから。
日本人には戦前、語学力がありました。台湾人は、日本人の先生から外国語を教わったのです。若い人には中国語や台湾語を学んでほしいですね。日台は運命共同体です。感謝、報恩を大事にする、利他の心など日本精神をベースに絆を深めていきたいです。
「台湾よとこしえに幸なれ」
昔の日本人が書き残した資料が最近発見されて、台湾の若者が拡散しています。
同じ言葉「日本よとこしえに幸なれ」を日本にお返しして、お話を終わります。
講演2 台湾と私 ちょっと前のお話 杉中 学 氏
これからお話するのは、台湾との国交断絶後のお話です。台湾への留学で、1979年にはじめて訪問しました。当時、訪台時には政治の話は禁止され、男性の長髪もNGでした。日本の新聞は数日遅れで手に入りますが、中国のことを書いてある部分は、墨塗りされたり、または切り取られていたりしました。テレビは党、軍、省政府の3CHのみ。家庭電話は共産勢力に聞かれているかもしれないからという理由で、みんな政治の話はしませんでした。ときどき使う国際電話は、とくに盗聴されているっぽい感じがしました。
ちょうど台湾留学の秋にマクド1号店が出店。コンビニなんてなかったので、お店では、値段がいくらか聞かないと買い物できない時代でした。当時台湾では注音符号(ポポモフォ)が100%使われていて、日本での勉強は簡体字とピンインだったので全然違いました。
1986年からは、製薬会社の駐在員に。
屏東の個人医院を訪問したとき 原住民のおばあちゃんが「先生ありがとうございました。」と言うのを聞いて、そこから、日本統治時代のことなどを意識するようになりました。
戒厳令の時代
・バス車内に密告を奨励する広告・・・共産党のスパイを見つけたら1500万円と書かれていました。
・圓山大飯店の場所、遊園地の丘の横には武器倉庫?らしきものがあり、高速道路の料金所には兵士の姿が。
・夜中の仁愛路で、双十節の戦車パレードの予行演習に出くわして、慌てて帰宅しました。
・蒋経国総統の死去で、テレビ番組がモノクロ画面に変わりました。
解厳
1992年ごろ 二二八事件の政府調査報告の翻訳ができました。
麗水街の豪邸に、いつも兵士の警護があって、地元の人に尋ねると、二二八事件当時の高雄の司令官の家でした。
こんなことをご存知ですか?(当時)
・映画館で、上映前に国歌が演奏され全員起立するので、台湾に来ている留学生も国歌を覚えました。
・バス車内には、何カ所もヒモがぶら下がっていて、それを押すと降車ベルが運転席で鳴るようになっていました。
・憲兵隊は、市内を巡回していました。
・町にあふれるワカメちゃん・・・女子中高生は、サザエさんのワカメちゃんのヘアスタイルで、全員同じでした。
・台湾のタクシー運転手の腕は世界一だそうです。二流だと死ぬからです。
沖縄からの留学生の国籍は琉球でした。
その後、私は、最近読売テレビ「そこまで言って委員会」の准レギュラーをつとめている、門田隆将さんが本を執筆される際の資料翻訳などを手がけました。
台湾で皆さんに見ていただきたいところ
・新竹駅の近くに「竹東 大生堂薬局」の看板を掲げているお店があります。昔から使われている看板で、店の人が朝最初に確認することは、夜のうちに看板がなくなっていないかどうか確かめることだそうです。台北の二二八記念館の2階に、事件の犠牲者となった方(嘉義の歯科医・呂先生)の遺書が展示されています。亡くなる前日に日本語で書かれた遺書が胸を打ちます。
【質問】
台湾と韓国はどちらも日本の統治を経ましたが、両国の日本への視点の違いはどこから来ると思われますか?
【回答】
学生時代に韓国語を勉強して一人旅しました。人それぞれだと感じましたが、公には日本を評価してはいけない空気がありますね。
韓国とは、根本的に歴史観が違うと思います。朝鮮民族としては同じでも両斑と奴婢で差別があったし、南北に別れた悲哀もあります。宗教観も台湾や日本と違います。
台湾は多神教で先祖も祀るので、日本に近いです。
台湾では二二八事件の行為は許せないけれども、命令を受けた軍人や、当事者の子孫に対しては、敵(カタキ)として見るよりも、「過去は過去」というスタンスです。大きな包容力であだを徳で返す、相手の中に入って大きな力で変える方が良い、という考えのように思います。
当日の様子
昔からの台湾好きの方からすると、あまり感じられないかもしれませんが、今、ちょっとした台湾ブームが巻き起こっているように思いませんか?テレビ番組では台湾旅行特集が組まれたり、或は駅弁探しをテーマにアイドルが台湾を一周するなんていう番組も有りました。書店では台湾コーナーが作られ旅行以外のテーマでも台湾を深く追求しようと言う読者のニーズに答えたりしています。そんな世の中の動きを受けてか、台湾通や台湾好きの方々が徐々に増え、時には台湾を熱く語る老若男女を街中で見かけたりします。いま、このサイトを見て頂いているあなたもその一人かもしれませんね。
そんな流れに一石を投じる、という訳ではありませんが、では台湾好きの皆様にお伺いします。
台湾の方々は果たしに日本人をどう思っているでしょうか?旅行先での優しくしてくれた思いでだけで台湾人を理解した気になっておりませんか?折角盛り上がりを見せている日台交流。日本からの片思いでは千年の恋も台無しです。台湾人の思いにも耳を傾け本当の日台交流を造りあげる、今回の講演をそのような場にして頂ければ幸いです。
講師ご紹介
李久惟(リ ジョーウェイ)氏
1975年台湾高雄生まれ 拓殖大学客員教授。多言語文化研究会代表、日本李登輝友の会理事。専門は語学教育、歴史、比較文化、国際関係論、異文化コミュニケーション。2000年東京外国語大学卒業、台湾高速鉄道(新幹線)プロジェクトに従事。15言語以上を話すマルチリンガルであり、野球やサッカーの国際大会や沖縄国際映画祭などさまざまな分野における通訳・翻訳を経て、現在は通訳翻訳会社の経営に参画する傍ら、主に教育分野で語学講師・セミナー講師として活躍。さらには多くの国際交流事業や講演・執筆活動を行う。主な著書に「台湾人から見た日本と韓国、病んでいるのはどっち?」「台湾人が警鐘を鳴らす“病的国家”中国の危うさ」(共にワニブックスPLUS新書)、「本当は語学が得意な日本人」(フォレスト出版)、「日本人に隠された《真実の台湾史》」(ヒカルランド)等がある。
第2部 台湾と私 (ちょっと前のお話)
当日は2人目の講師として、台湾国際放送にもご出演されておられる杉中学氏もお招きし、ご自身の留学や仕事を通じ40年に及ぶ長い台湾との交流の中で感じられた『台湾』をご自身の体験から語って頂きます。
講師ご紹介
杉中 学(すぎなか まなぶ)氏
1956年生まれ。日本獣医畜産大学(現:日本獣医生命科学大学)在学時に父が単身赴任していた台湾を訪れたのが、台湾との関わりのきっかけ。大学卒業後、商社勤務の後、台湾師範大学国語教学中心で2年間中国語(北京語)を学ぶ。
帰国後、日本企業の台湾駐在員として台北・台南に駐在。その後友人と台湾現地紙の翻訳サービス「台湾通信」を起ち上げるも、ビザの問題から帰国。製薬会社の国際部門に在籍し、主に中国語圏のビジネスを担当、7年間の中国青島での駐在をはさみ、約25年奉職し、今年定年退職。
ノンフィクソン作家・門田隆将氏の「汝、ふたつの故国に殉ず」執筆に際しては、インタビューの通訳や資料の翻訳・分析などで協力している。中国語通訳案内士。
開催日程:2017年10月29日(日)
開始時刻:13:30〜16:45(13:00受付開始)
参加費: 1,000円
定員: 50名(先着順)
主催: 日本と台湾を考える集い事務局
e-mail: t.forum.kansai@gmail.com facebook: 日本と台湾を考える集い
講演会後に講師を交えた懇親会も予定しております(先着38名)詳しくは以下のコクチーズページで!
第一部 台湾人として日本人に望むこと
講師 李久惟(リ ジョーウェイ)氏
第二部 台湾と私 (ちょっと前のお話)
講師 杉中 学ぶ(すぎなか まなぶ)氏
名称:伏見稲荷大社 参集殿
住所:京都市伏見区深草薮ノ内町68番地 伏見稲荷大社内
最寄り駅:
JR:奈良線「稲荷駅」より徒歩約3分
私鉄: 京阪本線「伏見稲荷駅」より徒歩約6分
参加申込みは↑
主催:日本と台湾を考える集い事務局
https://tsudoi-jptw.jimdo.com/
日本と台湾を考える集いは日台の相互理解の促進をめざし、関西を中心に活動をしている団体です。
日台の歴史・政治・文化等幅広い課題を取り上げ、学びの場として集いを開催しています。
連絡先:080-1403-3578(近藤)
2017年8月26日、遂に台湾アミ族の伝統歌の歌い手、蒋進興氏が来阪されその歌を披露されました。歌はアミ族の日常生活に於ける喜怒哀楽を紡ぎ、目を瞑るとその音色を聞くだけで彼らの生活が、喜びが、或は悲しみが有り有りと瞼に浮かぶようでした。最後は蒋氏も観客席に飛び込み、皆で輪になり喜びを表現。初めての大阪公演は大成功のうちに幕を閉じました。お越し下さった皆様、有り難う御座いました!
【郭英男と馬蘭吟唱隊について】
若き日の郭英男は、誰をも魅了する熟練した美しい歌唱で馬蘭部落のリードボーカルを務めていた。1978年に部落の数名で「馬蘭吟唱隊」を結成し台湾各地に赴き公演、そして1988年と1999年にはフランス,日本においても公演し、「台湾原住民の天籟の歌声」「世界の歌声」との誉れ高い呼び名を得て、言語の壁を越え大自然の美しく純粋な美声を、台湾原住民伝統歌謡を世界中に知らしめることに成功した。
第一代「馬蘭吟唱隊」は1998年及び1999年に魔岩唱片より2枚のアルバム『Circle of Difang―郭英男和馬蘭吟唱隊』,『Difang across the Yellow Earth 郭英男和馬蘭吟唱隊横跨黄色地球』を発売。その後2002年に郭英男夫妻が世を去り、第一代のメンバーも続けて後を追う中、部落の古老が伝統歌を保護するべく郭英男の長男である蔣進興を中心に第二代として馬蘭吟唱隊の美しい伝統歌を受け継ぎ、引き続き世界へ発信し続けています。
当日の様子です。コンサートの後の懇親会では、数日前に誕生日をお迎えになられたということでケーキも用意。最後はやはり歌で締める、蒋さんらしい懇親会となりました。
この動画のオープニングに何とも言えない美しい歌声で紡ぎだされたエスニックなメロディーに聞き覚えの有る方も有るかと思います。そう、これはアトランタオリンピックの際にエニグマが発したReturn to innocence です。これには実は原曲が有りました。
それは、今回お招きした蒋進興さんが歌い継ぐアミ族の心、「老人飲歌酒」でした・・・。
蔣進興と第二代馬蘭吟唱隊プロフィール
蔣進興と馬蘭吟唱隊の故郷はアミ族の馬蘭部落、生活に於いて歌うことが日常であるアミ族伝統部落です。かつて文字を持たなかったアミ族は歌を通して祖先の知恵や教訓を後代に伝えてきましたが、その後アミ族の生活も現代化し流行歌が流入するにつれ、優美な部族の伝統歌も徐々に忘れ去られてしまいました。アトランタオリンピックのオープニングセレモニーに於いて図らずにも部落の先人である郭英男の歌声「老人飲酒歌」が世界中に流れ、台湾原住民アミ族の伝統歌の美しさを世界中に知らしめる結果となり、にわかに原住民伝統歌を学ぶ流行が起きたものの長続きせず、生活の中で歌い継ぐまでには至りませんでした。郭英男が去って15年、もはやアミ族伝統歌は消失の危機にまで直面しています。そこで郭英男の長男である蔣進興は、美しく豊かなアミ族文化を伝統歌を通して皆様に紹介するべく、亡き父・郭英男の遺志を引き継いで第二代馬蘭吟唱隊を率いて立ち上がりました。彼らの舞台を通して、アミ族伝統文化及び先人の知恵の伝承に触れて頂きたいのです。
アミ族の伝統歌は一人がリードボーカルを務め、他の歌唱者が追随して歌う「複式合音唱法」(複音式唱法)が特徴です。女性と男性が共に歌い、途中でそれぞれ別の歌詞やメロディに変わりますが、最後は男女の歌声が見事に重なり合うのです。
彼らは現代の生活の中に於いても日常的に歌います。誰かが歌えば皆が追随する、そんな伝統文化が未だに生きています。馬蘭アミ族発祥の地である馬蘭部落を誇りとし、第二代馬蘭吟唱隊は世界中にアミ族伝統歌を伝え続けています。
【郭英男と馬蘭吟唱隊について】
若き日の郭英男は、誰をも魅了する熟練した美しい歌唱で馬蘭部落のリードボーカルを務めていた。1978年に部落の数名で「馬蘭吟唱隊」を結成し台湾各地に赴き公演、そして1988年と1999年にはフランス,日本においても公演し、「台湾原住民の天籟の歌声」「世界の歌声」との誉れ高い呼び名を得て、言語の壁を越え大自然の美しく純粋な美声を、台湾原住民伝統歌謡を世界中に知らしめることに成功した。
第一代「馬蘭吟唱隊」は1998年及び1999年に魔岩唱片より2枚のアルバム『Circle of Difang―郭英男和馬蘭吟唱隊』,『Difang across the Yellow Earth 郭英男和馬蘭吟唱隊横跨黄色地球』を発売。その後2002年に郭英男夫妻が世を去り、第一代のメンバーも続けて後を追う中、部落の古老が伝統歌を保護するべく郭英男の長男である蔣進興を中心に第二代として馬蘭吟唱隊の美しい伝統歌を受け継ぎ、引き続き世界へ発信し続けています。
開催日程:2017年8月26日(土)
開始時刻:14:30〜16:30(13:45受付開始)
参加費: 前売り:2,000円
当日: 2,500円
定員: 140名(先着順)
主催: 日本と台湾を考える集い事務局
e-mail: t.forum.kansai@gmail.com facebook: 日本と台湾を考える集い
講演会後に講師を交えた懇親会も予定しております(先着57名,参加費前売りのみ3,000円)
詳しくは以下のコクチーズページで!
これまで集いでは、歴史や日台交流といったテーマで皆様に様々な台湾に関する情報を発信して参りましたが、芸能に関する話題を提供させて頂くのは初めてとなります。日台交流よりも更に古い歴史を持った原住民の歌声をぜひ生でご堪能下さい!
名称:ドーンセンター1F パフォーマンススペース
住所:大阪市中央区大手前1丁目3番49号
最寄り駅:
地下鉄:谷町線「天満橋」下車、1番出入口から東へ約350m
私鉄: 京阪線「天満橋」同上
JR: 東西線「大阪城北詰」下車、
2番出口より土佐堀沿いに西へ約550m
参加申込みは↑
主催:日本と台湾を考える集い事務局
https://tsudoi-jptw.jimdo.com/
日本と台湾を考える集いは日台の相互理解の促進をめざし、関西を中心に活動をしている団体です。
日台の歴史・政治・文化等幅広い課題を取り上げ、学びの場として集いを開催しています。
連絡先:080-1403-3578(近藤)
第50回集いで片倉さんに台湾に於ける日本統治時代の建築の魅力を存分に語って頂きました。
以下講演概要となります。当日の様子をお楽しみ下さい。
今、台湾は記録的な豪雨に見舞われている。しかし、台北では、日本統治時代に整備された旧市街(現在の新生北路よりも西側)は洪水が起きない。これは、日本人が台湾の気候や地形を徹底して調査し、都市計画を進めたこと、そして、台湾の特質に沿った建築技術を活かして整備を進めたことによる。
日本は台湾統治にあたって、4つの軸を設けていた。それは、①治安の維持、②教育の普及、③衛生事情の改善、そして ④調査活動だった。この4番目に挙げられる調査事業というものは非常に重要で、そのエッセンスは今も活用され、受け継がれている。
同時に、これは歴史建築を見る際の面白さにもなる。 台湾では、歴史が60年以上あって公共性を持つ建物は史跡として扱われ、保存対象になる。しかも、ただ残すのではなく、市民が歴史に触れあうことを重視し、ギャラリーや喫茶店、公共空間などとして、再利用されることが多い。
かつての台湾は若き建築家たちにとっての「腕試し」の場だった。 後発の新領土では急を要する建築物が数多くあったこと、上下関係や年功序列といった旧来のしがらみが少なく、しかも、当時のアジア情勢下、日本が得た初めての海外領土だった台湾は、これをいかに日本が統治するか、欧米列強に監視されていたと言ってもいい。
日本は国力を誇示するべく、様々な様式・スタイルの建造物を作り上げていった。台湾総督官邸(現・台北賓館)は瀟洒なフランス風バロック、新竹駅は質実剛健な印象のドイツ風バロック、台湾総督府(現・総統府)はイギリス風である。
さらに、赤レンガ建築に黒瓦を載せたスタイルや、中国南方様式に西洋建築のデザインを加味したものなど、台湾独自のスタイルも見られるようになった。 その中の一つに鉄道の駅舎がある。
台湾には日本統治時代の駅舎がいくつか残っている。台湾の人々はこれを「日本式駅舎」と呼ぶが、実はこの手の駅舎は日本では見られない。 台湾の木造駅舎は扉がなく、窓が大きく、そして、必ず庇(ひさし)があるという特徴を持つ。これは、暑い気候のもとで、風通しと日当たりのよさを重視したため。 また、トイレは待合室内に置かず、あえて別棟として設計されている。これは日本にない伝染病の蔓延を防ぐためである。こういった衛生面を考慮した工夫は、戦後の台湾にも受け継がれている。
1999年9月に発生した台湾中部大地震の際、日本時代の木造家屋は傾いても倒れなかった。一方、戦後の建物はもろくも倒壊し、多数の死者が出た。これは戦後にアメリカの建築基準を採用したことに起因する。
こういったものを目の当たりにし、台湾の人々は日本人が有益な町づくりや建築物を手掛けたこと、有用な研究成果を残していったこと、これらを冷静で、かつ客観的な評価の下、受け止めるようになった。
台湾の人々がなぜ日本人に親切にしてくれるのか。これについてももう一度、考えてみたい。これはかつて、台湾人と日本人がともに暮した半世紀、人々は日本人の生きざまをしっかり見ていたからだと私は思っている。そして、台湾の人々が生来もっていた勤勉な気質がそこに折り重なった。台湾人は日本の良いところも悪いところも熟知していて、その上で日本に関心を寄せてくれる。
建物のリノベーション事例を見ていくと、ここ15年ほどで台湾人の「センス」が際立ってきたように感じる。少し前までは、デザイナーにセンスがあっても、上の世代がそれを理解できず、残念な結果になることが多かった。しかし、ここ数年は状況が変わってきており、若いデザイナーを応援する仕組みが生まれてきている。
台湾の建物を訪ね歩くことは、日本人が知らない日本の歴史を学んだり、台湾の地に根付いた日本を探したり、かつて台湾の地に暮らした先輩たちの生きざまに触れたりするなど、さまざまな楽しみ方を含んでいる。同時に台湾人の独創的なセンス、常識にとらわれない空間利用のあり方を目にする楽しみなどもある。これらはいずれも台湾の旅に加えられた新しい魅力と言えるだろう。
台湾総督府。辰野式のデザイン。平日午前は1階部分が参観可能。中央塔の高さは60 メートル。権威を強調した大正期の官庁建築のスタイル。
台北賓館。フランス風バロック。「蟻害」の教訓を日本人に教えた建築。初代はわずか10 年あまりで改築された。
台北公会堂。戦前、台北最大の公共建築。アラビックのデザイン。
新竹駅。ドイツ風ネオバロック様式。戦前の三大名駅舎。
台中駅。最も美しいと言われた駅舎。新駅舎完成後も保存。
当日の講演会の様子です
集いの江上代表の挨拶に始まり、来賓の方々からのご挨拶の後、片倉さんのお話が始まりました。当日販売された片倉さんの書籍購入者への特別サイン会は長蛇の列。休み時間一杯、御対応頂きました。講演終了後も台湾に興味津々の方々からの質問を丁寧にお受け頂きました。
懇親会も盛り上がりました!
皆さん、片倉さんのお話を聞き、自身の想いを片倉さんへお返し。お酒の酔いも手伝い台湾トークが一層弾みました。
片倉さん、有り難う御座いました!!
台湾における日本統治時代の建築物は、日本の敗戦により統治者が中国国民党に替わった後もその多くが残され今も保全活用されています。同じ条件下にあった朝鮮半島との違いがあります。台湾の建物が残された経過、人々の思いはいかなるものか。それらを含めお話ししていただければと思います。お話をお聞きになって『台湾で日帰り旅』を手に訪れてみてはいかがでしょうか。
また八田與一の偉業を学ぶ事を目的とした第49回集いを開催した4月16日当日、八田與一像の首が切られるという事件がありました。烏山頭水庫を臨む地に安置され、激動の歴史にあって地元の人々に愛され親しまれて来ただけに、台湾社会に大きな衝撃を与えたようです。日本でも主要各紙が報道した事により初めて氏の存在を知った日本人が多かったかと思います。自首した犯人は「中華統一促進党」に所属する元台北市議ということですが、片倉さんには台湾での反響や日本との関係への影響等も併せてお話を伺えればと考えています。
講師ご紹介 片倉 佳史氏
1969年生まれ。早稲田大学教育学部卒業。台湾に残る日本統治時代の遺構を記録し、日本語世代の台湾人や台湾からの引揚者の聞き取り調査に心血を注ぐ。地理・歴史、原住民族の風俗・文化、グルメなどのジャンルで執筆と撮影を続けているほか、台湾の社会事情や歴史、旅行情報などをテーマに講演活動を行なっている。著書に『台湾に生きている日本』、『古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産』(交通新聞社新書)、『観光コースでない台湾』(高文研)など。2012年には李登輝元総統の著作『日台の「心と心の絆」~素晴らしき日本人へ』(宝島社)を手がける。最新刊は台北生活情報誌『悠遊台湾』及び『台湾で日帰り旅』(JTBパブリシング)。
ウェブサイトは台湾特捜百貨店
講師著作ご紹介
開催日程:2017年6月4日(日)
開始時刻:13:00〜16:30(12:30受付開始)
参加費: 1,000円
定員: 100名(先着順)
主催: 日本と台湾を考える集い事務局
e-mail: t.forum.kansai@gmail.com facebook: 日本と台湾を考える集い
講演会後に講師を交えた懇親会も予定しております(先着50名)詳しくは以下のコクチーズページで!
朝鮮半島で日本統治時代の建物を取り壊す動きが有る一方、台湾は統治者が日本から中国国民党に移った後もその多くが残され保全され、そして今でも大切に使われております。如何なる状況下で、人々はどのような想いで、今に至るのか。台湾をあらゆる側面から研究、調査されて来た片倉さんに熱く語って頂きます!
参加申込みは↑
主催:日本と台湾を考える集い事務局
https://tsudoi-jptw.jimdo.com/
日本と台湾を考える集いは日台の相互理解の促進をめざし、関西を中心に活動をしている団体です。
日台の歴史・政治・文化等幅広い課題を取り上げ、学びの場として集いを開催しています。
連絡先:080-1403-3578(近藤)
第49回集いを開催しました。今回は古川さん、朝河さんにご講演頂きました。
第一部は古川さんから八田與一を中心に日本を愛する台湾人の心、台湾人の期待に応えた日本人の粋、そして今の良好な日台交流の礎、象徴となった烏山頭ダムの話を熱いトークで伝えて頂きました。
東日本大震災の時、真っ先に駆けつけ、そして巨額の募金を極めて短期間に届けてくれたのは何を隠そう、我々の大切な友人である台湾でした。彼らはなぜそこまでしてくれたのか。それは昔台湾が大地震に見舞われた時、真っ先に助けに駆けつけたのが日本だったからです。救助隊は到着するやホテル等には向かわず即座に現場に駆けつけ昼夜を問わず被害者の救出活動に奔走しました。残念ながら間に合わなかった命には黙祷と共に哀悼の意を示すその姿は一気に台湾全土を駆け抜け、やはり日本人だ、、という声があちらこちらであがったとの事です。
そうです、台湾の人たちはこのときの事を決して忘れていなかったのです。日本が困難に見舞われた時、今度は私たちの番だ!と即座に立上がってくれた。台湾人というのはそんな義理堅い人たちなのです。そしてその土台になったのは八田さんのような我々の諸先輩方の偉大な姿だったのです。
我々はそれを決して忘れてはいけないし、また、諸先輩方に恥じないように生きなくてはならない、そう語る古川さんの語気は時間が経つにつれ益々熱を帯び、会場は熱気があるが、しかし荘厳な、そんな雰囲気に包まれました。
第二部は朝河さんからマレーシア、シンガポールでの生活体験を通して感じた東南アジアに根ざした中華の生き様を語って頂きました。小国シンガポールが東南アジアの覇権を掛け四面楚歌の中、如何に建ち上がり今の国際的地位を築いたのか、また、イスラム一色の支配から脱却し一皮剥けようとするマレーシアの苦悩、大中華圏とは言え、台湾とは生い立ちも文化も違うそんな新たな中華のイメージを学べた時間でした。
今回もいつも以上に台湾についての理解が多いに深まった回でした。
古川さん、朝河さん、有り難う御座いました!
皆様の熱いご期待にお応えし、集い参加者及び懇親会の追加募集を決定致しました!!!
コクチーズへお急ぎ下さい!
日台交流が益々盛んになり勢いを増す昨今、日本でも様々な台湾映画が放映されるようになりました。その中で日本統治時代の台湾において野球を通した日台交流を描いたKANOを見た方も多いのではないでしょうか。その中で俳優の大沢たかおさんが演じておられたのが今回お話し頂く八田與一先生です。台湾が好きで少しは台湾の事を勉強した事が有る方ならほとんどがご存知の事かと思います。
今回講師にお招きしましたのは、古川勝三さんです。古川さんは台湾高雄日本人学校の教師として台湾に赴任されました。1980年のことです。1949年に蒋介石により布かれた戒厳令が未だ解除されていない、今とは少し状況の違う時代の台湾でした。国民党が国家統治の為に前の為政者である日本人の記憶をかき消すように反日教育を行っていたり、また、我々日本人も国内に於いては日本人はアジアの人々に悪い事をして来たという教育を受けていた、そんな時代に古川さんは台湾に赴きました。
赴任して一年程過ぎた頃、古川さんは偶然、この銅像に出会います。その背後にはその方と奥様のお墓まで丁寧に建てられている。
古川さんは驚きます。なぜこの台湾で日本人の銅像があるのか。日本人は悪い事をしたと学んだが、ではなぜこんなに大切にされているのか。
それから古川さんはこの銅像の主の事を調べ始めます。1981年の事でした。そして10年後、長年の苦労が実り調査した内容が遂に書籍となり出版されました。「台湾を愛した日本人」。
今回の講演では古川さんが、あの中国国民党の反日政策の嵐が吹き荒れた時代をも潜り抜けて来たこの八田與一氏の銅像との出会いから本を出版するまでを通じて、感じ、考えられた事を今の時代を生きる私たち日本人にお話頂きます。お楽しみに!
講師ご紹介 古川 勝三氏
1944年 愛媛県宇和島市生まれ 愛媛大学卒業、以後教職の道を歩む
1980年 文部省派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務
1983年 「台湾の歩んだ道」「台湾を愛した日本人」台湾で出版
1989年 「台湾を愛した日本人」八田與一の生涯青葉図書より出版
1991年 「台湾を愛した日本人」で土木学会著作賞受賞
1992年 財団法人台湾協会から日台親善功績者として授賞
2001年 「嘉南大圳之父」八田與一傳 中国語版台湾で出版
2004年 公立中学校長を引退
2009年 「台湾を愛した日本人」土木技師八田與一の生涯改訂版出版
2013年 台湾観光局より台湾観光貢献賞授賞
2013年 「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」を出版
2015年 「台湾を愛した日本人Ⅱ」 近藤兵太郎の生涯を出版
現 在 「台湾を愛した日本人Ⅲ」磯永吉&末永仁の生涯執筆中
講師著作ご紹介(当日頒布致します)
烏山頭ダム近景
強く放たれる水が嘉南平原を潤します
ダム上流の美しい景色
ダムの側で美しく実る稲穂
殉工碑
日本人、台湾人の区別無くその名が刻まれており、彼らの貢献を讃えるため八田氏自ら碑文を刻んでいます。
嘉南大圳は其の利澤を蒙むる廣袤の宏いなること其の水源に於ける工式の雄なるとに於て世界に冠たり、従って其工細且微にして施工上幾多の困難に逢著せるも辛楚十年茲に工全く成る、諸子は斯る間に於て不慮の災厄に遭ひ或は風土の病疫に冒され空しく異郷の墳塋に眠る 轉に痛惜に堪へさるなり 雖然諸子は齊しく犠牲的殉工者にして一死克く従業員の志氣を鼓舞し以て此大工を竣ふるを得たり 又偉なりと謂うふへし、噫々彼の淙々たる曽文渓水は此蜿蜒たる長堤に蘊崇して長へに汪々たる碧潭を奉し随時の灌水は滾々環流して 盡きさる限り諸子の名も亦不朽なるへし、乃ち茲に地を卜し碑を建て以て諸子を傳ふるの文をなす矣
昭和五年三月
烏山頭交友會長 八田與一
講師が赴任された高雄日本人学校 在りし日の姿
1980年代後半に校門が建て替えられました
講師が赴任されていた頃の校門?
日本人学校校歌と講師の後輩(?)による授業風景
開催日程:2017年4月16日(日)
開始時刻:13:00〜16:30(12:30受付開始)
参加費: 一般 1,000円
大学生 500円
高校生以下&台湾留学生は無料
定員: 50名(先着順)
主催: 日本と台湾を考える集い事務局
e-mail: t.forum.kansai@gmail.com facebook: 日本と台湾を考える集い
・八田技師の考え方や生き方から学ぶ
・歴史から何を学ぶか
・21世紀に生きる若人に望みたいこと
講演に先立ち科学技術振興機構製作「水のインフラ(後編)不毛の台地に水を届ける 台湾・嘉南平原」の映像を上映します。
またサブ講演として、マレーシア駐在生活を終えた事務局スタッフが報告します。 「リークアンユーによるシンガポール復興における日本の役割、及びマレーシアのルックイースト政策」
名称:大阪市立難波市民学習センター 講堂
住所:〒556-0017 大阪府大阪市浪速区湊町1丁目1−4−1
OCATビル4階
最寄り駅:
地下鉄:御堂筋線・四つ橋線・千日前線「なんば」駅下車
JR: JR難波 駅上
私鉄: 近鉄・阪神「大阪難波」駅、南海「難波」駅
市バス:JR難波駅前 下車すぐ
参加申込みは↑
主催:一般財団法人台湾協会・日本と台湾を考える集い事務局
http://www.taiwankyokai.or.jp/info・ https://tsudoi-jptw.jimdo.com/
台湾協会は東京都新宿区新宿6-29-6(電話03-3200-8116)に所在し、日台の相互理解の促進をめざす全国的な団体です。
関西在住会員が中心となり、日台の歴史・政治・文化等幅広い課題を取り上げ、学びの場として集いを開催しています。
連絡先:080-1403-3578(近藤)
この度ご講演頂きました立石氏、范氏、貴島氏です。映画が切欠となりましたので、皆様のお写真も少しフィルム風にアレンジ!
左は映画で森鴎外を演じた貴島氏、右はプロデューサーの范氏
二二八事件発生時の貴重な体験談を頂いた立石氏
2017年2月11日(土)第48回「日本と台湾を考える集い」を開催しました。
講師の方を含め64名の方が参加されました。その時の様子をレポート致します。
By ふぉるもさライダー
第1部 対談・台湾映画「一八九五」について
2008年に公開された台湾映画「一八九五」にゆかりのお二人に対談頂きました。
お一人は、この映画のプロデューサーであり、台湾映画「湾生回家」、日台合作映画「南風」もプロデュースされた范健祐氏。亜細亜大学/東京大学への留学経験をお持ちで、流暢な日本語でお話しされました。
以下、講演頂いた主な内容です。
日清戦争後に下関条約が締結され、台湾の日本への割譲が決まりましたが、そのことは現地台湾には知らされておらず、台湾人にとって日清戦争の顛末は、本来関係のないことでした。
この映画は、1895年、清国から割譲された台湾を接収するため進駐してきた大日本帝国陸軍と、これに抵抗した客家(はっか)人義勇軍の対決を取り上げたものです。
帝国陸軍は、当時東洋で最も精強と言われた近衛師団。一方、台湾全島の統治者がいない中で、客家人は郷土を守るために近衛師団に対しゲリラ戦を展開します。陳水扁政権の行政院客家委員会が資金等を全面的に支援してこの映画ができました。残酷な戦闘シーンは入れない、というのが客家委員会のスタンスでした。学校でも、客家の歴史や文化を学ぶための教材として使われています。
原作では森鴎外については記載がなかったのですが、私は日本に留学した際に森鴎外原作の映画「舞姫」を見て、森林太郎の名前を覚えました。森林太郎が近衛師団に軍医として従軍した折りに書いた日記を読み、更に日本軍の指揮を執った北白川能久親王の経歴も研究して、これが「一八九五」の切り口になります。それで、映画の脚本では若き日の陸軍軍医森林太郎(森鴎外)に光を当てました。このことが縁で森鴎外のひ孫の方から連絡があり、友人になりました。
2007年に台湾高速鉄道(台湾新幹線)の試運転が始まりました。撮影中に新幹線が映り込まないように撮るのが大変でした。
2008年の8月に「海角七号」が公開され、そのあと11月に「一八九五」を上映して台湾映画がブームになりました。台湾人以外が主役になった初の台湾映画です。
台中市郊外の新社台地に灌漑施設「白冷圳」を建設したのは、嘉南大圳の八田與一氏の後輩にあたる磯田謙雄(いそだのりお)技師でした。「水利の父」と呼ばれる彼の功績をいま調べていて、今春からドキュメント映画を製作します。
もう一人は、この映画で台湾に進駐した陸軍軍医 森林太郎(森鴎外)を演じた俳優の貴島功一朗 氏。
台湾で、谷 炫錞(グー・シュンチュン)の名前で知られる関西出身のイケメン俳優さんです。愛称は「KOU」。
台湾のテレビドラマやCMに出演。日本では、ハゲタカ(2009年・映画版)の李克仁 役で出演されました。
以下、講演頂いた主な内容です。
大卒後、芸能関係の仕事がしたくて台湾に渡り、中国語を勉強。現地でスカウトされて10年滞在し、映画やドラマに出ました。日本人では台湾のCMにいちばん多く出ているかもしれません。そのぐらい本腰を入れ、台湾ではたくさんのチャンスをいただきました。
「どうすれば日本人の彼氏ができるか」をテーマにした本も出しました。
実は、夢を追いかけて台湾に行ったことで、父との間にわだかまりがありましたが、台湾でドラマの主演をして、父と和解できました。
映画「一八九五」で森鴎外に扮することになって、森鴎外に関する本を日本から取り寄せて役作りを研究しました。演じさせていただいて、台湾側の立場からの出来事と日本軍の立場からの出来事、そしてそのすれ違いが描かれていて、面白い角度で捉えていると感じました。
みんぱく(国立民族学博物館)で「一八九五」試写会が行われた際には、収容人数を大きく上回る集客となり、みんぱく始まって以来だと言われました。台湾原住民の台詞の字幕には関西弁が使われていました。
2010年に帰国し、鍼灸師の免許を取りました。家業を継いで西宮で開業しています。帰国後、台湾と日本に関連することをより一層研究し、映画の材料にしたり、交流を深めたりするようになりました。台湾のファンの皆さんとの交流は今も続いていて、今年は訪台したいと思います。関西にいて、できることを考えていきたいです。
貴島氏のバラエティーに富んだ自己紹介からトークは始まりました。
范氏からも映画作りの秘話や着想に至った背景等興味深い話が一杯でした。
いつもとは違う集いの雰囲気の中、お二人の話に聞き入る参加者の皆様。
役柄を深める為に森鴎外を調べるうちに見つけた隠れ話?を披露。
最後は何と参加者へのプレゼント!
抽選の代わりに皆様でジャンケンを行いました。
最後にお二人から台湾への思いを一言。
范氏には度々集いへおこし頂きました。
貴重なお話、有り難う御座いました!
第2部 二二八事件 台北での目撃談 立石昭三氏
私は、1935年台北生まれの湾生です。1年生のときに太平洋戦争がはじまりました。始めのうちはシンガポールや香港を陥落させて華々しく提灯行列をしましたが、次第に空襲が激しくなり、3年生で台北郊外の三峡に疎開。いちばん記憶に残っているのは飢えたことで、かぼちゃや冬瓜はもう一生分食べたから、今後も口にしないでしょう。5年生の時に敗戦を迎えましたが、父が台湾大学に留用され、残れるだけ台湾にいることにして、1949年8月の最後の引き上げ船で一家が帰国しました。
学校がなくなって突然自由になり、生物が好きだった私は、手製のパチンコで鳥を捕らえたり、川をせき止めて魚を採ったりして遊んだものです。やがて蒋介石政府が用意した日本人子弟の小学校・中学校ができ、そこに通いました。
また、残った日本人の中で大学の先生が教壇に立つ学校が組織され、一流の先生から教わることができました。
終戦後、いちばんびっくりしたのは、大陸から台湾に渡ってきた国民党軍のいでたち。行進しているのは、戦勝国の軍隊とは思えない、唐傘に衣類をくくりつけて鍋釜をぶらさげたバラバラの服装の軍隊、それが蒋介石軍でした。その後の彼らの政治は、中国大陸と同じやり方で賄賂なしでは動かないし、庶民のものは勝手に強奪するという具合でした。私も通学途中に、「接収!」と言われて鉛筆やノートを取り上げられたことがあります。私の家も国民党の兵士が来て接収。家族は1つの部屋で暮らしました。彼らは押し入れにペンキを塗って寝室にしていました。そのうち、国民党から「家を貸すなら接収しない」と言われて応じました。インフレも激しく、給料が出るとまず銀貨に変える必要があったほどです。
1947年2月に発生した二二八事件のことは良く覚えています。
「榕樹文化」という雑誌は、台湾からの引き揚げ者が京都で年4回発行しているものですが、この雑誌に事件のことを投稿した記事が、お手元に配布した資料です(榕樹とはガジュマルのことです)。
2月27日、台北市で闇タバコを売っていたおばさんに対し、取締の役人が暴行を加え、周りの台湾人がその役人をたたきのめしたのをきっかけに、翌日にかけて台湾全土に暴動が広がりました。台湾人は大陸から来た外省人をやっつけたけれども、国民党軍は大陸から増援部隊を呼び寄せて、反乱勢力を鎮圧。優勢になった国民党軍は反乱した台湾人を次々に処刑。トラックの荷台に後ろ手に縛られた台湾人。彼らの背中には大きな団扇が刺してあって、この男は政府の悪口を言った、等の罪状が書かれています。彼らをトラックから降ろしひざまずかせて、モーゼル銃で頭を撃ち抜くのです。貫通力の強い銃なので、向こうに土煙があがります。切り離された首は、市中に掲げられました。まさに獄門です。
本当に二二八事件は、子どもに悪い印象を残しました。
その後戒厳令が38年間続きました。現在、本当に民進党の世の中になったことを、台湾の人達はどれほど喜んでいることか。台湾国際放送を聴いているとよくわかります。
国民党に貸した家には、日本軍の将校(陸軍中野学校の卒業生)がやって来ました。彼らは蒋介石軍に雇われていたらしく、ジャンクで中国大陸へ行ったり、米軍機で日本まで往復したりして諜報活動をしていました。はじめは私にわからない中国語で会話していて、私が中国語を少しわかるようになると、ロシア語に切替えて話していました。キャノン機関に属し、国鉄総裁が暗殺された下山事件に関わったようです。
ある日、紙切れひとつ残さず、挨拶もなしにいなくなりました。
戦後の台湾ではこういうことはちっとも不思議ではなかったのです。
終戦後、日本人の台湾からの引き揚げ後も留まり続ける事を求められた台湾であの二二八事件が発生します。混乱を極め、台湾暗黒の歴史と呼ばれる時代の悲しい幕開け。果たしてあの日、その場所で立石氏は何を目撃したのか。淡々とした語り口から語られる衝撃の事実は今の台湾の姿からは想像もできない過酷な現実でした。長年閉ざされて来た二二八、そしてそれ以降の時代を体験者から聞ける機会は滅多にございません。あなたがもし台湾好きというならば、台湾のもうひとつの真実の物語にも耳を傾けてください。
最後は私どもの代表、副代表とご講演頂きました皆様と集合写真を頂きました。
立石様、范様、貴島様、有り難う御座いました!!
お申し込みはコクチーズから!
12月12日、台北駐日経済文化代表処(大使館に相当)は日本人を対象に行った世論調査結果を発表しました。台湾に「親しみを感じている」と答えた人は66.5%に達し、「アジアで最も親しみを感じる国・地域」との問いには59.1%が「台湾」と回答していたことが分かりました。一方、2015年の台湾からの訪日客は368万人、2,350万人の人口の15%を占めるといいます。
このように良好な日台関係ではありますが、日本側の台湾認識は必ずしも充分とは言えない状況にあります。台湾の歴史を振り返ると常に外来勢力に蹂躙されて来た事実があり、わが日本もその責任を免れません。
次回は二二八事件発生70年を経過する時期でもありますので、それと併せて日本の領台をとりあげ、共に考えたいと企画しました。
第1部 対談・台湾映画「一八九五」について
・プロデューサー: 范健祐氏
・俳優: 貴島功一朗氏
1895年、清国は下関条約にもとづき台湾を日本に永久割譲し、日本は台湾を1945年までの50年間統治しました。本作は進駐した大日本帝国軍と対抗する台湾人を描いています。「湾生回家」「南風」をプロデュースされた范健祐氏と若き日の陸軍軍医森林太郎(森鴎外)を演じた貴島氏に映画製作を通じて議論されたことや台湾人の歴史の中にどう記憶されているのかを対談形式でお話願えたらと思います。*映画の全編をYoutubeで見ることができます(以下動画をクリック願います)。
第2部 二二八事件 台北での目撃談 立石昭三氏
事件は中国国民党とともに来台した外省人とそれまで台湾に住んでいた本省人との矛盾が暴発し全島が内乱状態に陥った歴史的な事件で、台湾人に深い傷を残しました。70年経過した今でも3万人ともされる死亡者数を含めた真相は解明されていません。
発生した1947年2月27日にほとんどの日本人は引き揚げており、目撃した人は少ないとされています。最後の引き揚げ船(1949年8月)で帰国した立石氏(1935年)に台北市内で遭遇した経験をお話してもらいます。
特別映像御紹介
2016年11月28日にご逝去されました音楽家でもある二二八事件真相探求家・阮美妹さんが「集い」のために非公開で語られた大変貴重な映像をご紹介致します。お見逃し無く!
開催日程:2016年2月11日(土)
開始時刻:13:00〜16:30(12:30受付開始)
参加費: 1,000円(税込み)
定員: 50名(先着順)
主催: 日本と台湾を考える集い事務局
e-mail: t.forum.kansai@gmail.com facebook: 日本と台湾を考える集い
名称:大阪市立難波市民学習センター 第1研修室
住所:〒556-0017 大阪府大阪市浪速区湊町1丁目1−4−1
OCATビル4階
最寄り駅:
地下鉄:御堂筋線・四つ橋線・千日前線「なんば」駅下車
JR: JR難波 駅上
私鉄: 近鉄・阪神「大阪難波」駅、南海「難波」駅
市バス:JR難波駅前 下車すぐ